もーしょんぴくちゃー

ジャンゴとスパイク・リーと、考えてもしょうがないこと

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音楽は何も語らない、ただ鳴り響く音があるだけだ。
ストラビンスキーの語録です。
何かを語ろうとすると、それは音楽でなくなるのか、それとも、語る部分以外のものを音楽として、音楽が語り出すとそれは音楽の乗っかった何か、例えば文学?例えば演説?なのだろうか。いずれにしても、ストラビンスキー程に了見が狭くない私は、それらを含めて、まあ音楽で出来ることをしましょうよという立ち位置に最近はなっています。

音楽については、ぼくはなるべく好きな範囲を広げようと心掛けています。ヘビメタが苦手とか変拍子が苦手とか、克服出来ないポイントが山積みですが、少なくとも心がけてはいます。理由は、なるべく多くの音楽が好きでいたいというそれだけです。

音楽は私の生命にとって特別なものですが、映画については、もっと我儘な愛好家です。

スパイク・リーという黒人の映画監督が、クエンティン・タランティーノ監督の「ジャンゴ 繋がれざる者」という映画について、そのあらすじだけを拠り所に、不快感を露わにしています。
「『ジャンゴ 繋がれざる者』についての話はできないよ。観るつもりがないからね。これは、僕の祖先に対して冒涜的な映画だ。あくまで僕の私見で、何の代表意見でもなんでもないけど」
Twitterでは、
「アメリカの奴隷制は、セルジオ・レオーネ流儀の西部劇なんかじゃなく、ホロコーストなんだ。僕の祖先は、アフリカから盗み出された奴隷たちだ。僕は祖先に敬意を抱いている」とコメント。
映画通じゃないたにふじは、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ(ユダヤ人のナチへ復讐するアクション)」を観ていませんが、もしもスパイク・リーがそれを観ていたら、ジャンゴが黒人主演のガン・アクションで終わる映画なのかどうか、ちゃんとお手並みを見届けようと想ったかも知れない。それとも、観ていても同じだったのだろうか。

ぼくが観た「ジャンゴ」は、僅かな例外を除いて最悪な白人ばかりが多数登場し、黒人は酷いめに遭い、黒人のジャンゴ(主役)は運良く人種差別を嫌う賞金稼ぎと出逢い、身の安全を得て一流のガンマンとして悪の白人を蹴散らす話で、比較的リベラルに出来た映画だと想います。ただ、時代というか、今この2013年にぼくがこういう映画を観たら、兎に角拳銃で人を殺しまくるのが、エンターティメントだとしてもきっついなあ…とか。無粋ってことになるのかな。そうだろうけど。
スパイク・リーが南部戦争以前の歴史をホロコーストと断じる時、南部戦争以後とくっきり分けて、更にはユダヤ人に深い敬意を持って発言しているのだろうか。歴史を恥じ入るばかりになっている現代ドイツの若者に配慮をしてるだろうか。無理でしょう。全てに配慮してたら、呼吸出来ない。ある程度の傷をかすり傷とするか殺戮とするか、何処迄が礼儀か、何もかも共通じゃない。

そしてこれからたにふじは、自分の映画に対する立ち位置で、全ての人を擁護する発言をかっこよくするつもりです。行くよ。

スパイク・リーは、何の代表意見でもない、と言い切っています。映画の作家性だとか、完成度とか、ある意味映画監督であれば映画の語法については説明は出来るべきとか、そんなことで語ってない。
「これは、アフロ・アメリカンとしての自分の好みの問題だ」
と、それだけを言っているんです。主演のジェイミー・フォックスは、
「観ないなら語るべきではない。それは一寸無責任なんじゃないかな」
といなしていますが、スパイクにしてみれば、好みじゃない映画なんだから、観たくない。それ以上でも以下でもないことを言ってるんだよ、とある意味はじめからいなし返してる。こうしてパイ投げが大きくなって、最後にスパイクが観ざるを得なくなったりして、まあこれならいいだろう…みたいになったら面白いけれど、それも大きなお世話で、監督であろうとなかろうと、観たくないものは観ない権利あるでしょう。ぼくだって、ヘビメタ好きじゃないし、好みの純度を守る方が大事かもしれないですし。

この件でぼくは、ストラビンスキーの話を想い出した。音は、鳴り響くだけのものだろうか。
実は彼のこの発言は、その以前の極度にロマン主義に奔り過ぎた音楽に対し、それをけん制する意図でのものらしいです。つまり、言葉を今日の常識で額面通りに聞くことはない。しかし、音楽は、作家性だとか波長の数学的な機能だけで解釈やましてや「鳴り響いて終わって」しまうものではない。ある言葉の束、ある物語を語る時に、それが音楽を持ってすれば有用なのなら、音楽を用いればいい。それは音楽を貶めることにはならないでしょう。

さだまさしさんが、どうしてあれだけのストーリーテリングを、文学ではなく音楽として作品化するのかについて、
「時間的に、丁度良いというのがある」
と答えていました。時に20分を超えるさださんの曲は、かなり具体的な物語なのに、果たして音楽で伝える必要があるのか。もしもあれが、完全にテキストのみだったら、どうなったんだろう。例えば雑誌の連載になり、やがて一冊の単行本になる。ある程度のヒットになり、浸透もする。では音楽だったら、どう違うか。読み聞かせ等の場よりも、通常コンサートの方が動員が大きく見込めるし、ラジオで音楽として流れるし、浸透する機会は数倍になる。
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では、そんな戦略的な意味合いだけだろうか。違うでしょう。さださんは、その物語を歌にするというコンテンツ制作に、その都度拘っている筈です。この時間の中で物語を、音楽にしたい、そういう欲求があるからこそそうした。

ぼくは他人の気持ちについて断定的な物言いをするのがあまり好きじゃないんです。想像だし、場合によっては(今回などは殊に)希望だったりもするじゃないですか、そういうのって。でも敢えて、さださんは、音楽の中でそれをやらないわけにはいかなかった、と言い切ろう。

タランティーノは、どうしてもマカロニ・ウェスタンでジャンゴを撮りたかった。スパイク・リーは作家であること等頓着せずにそれがイヤだと言った。「ただ鳴り響く音」に執着したストラビンスキーも、それぞれがそれぞれの、しょうがなさに突き動かされて、DNAをプリントし続けるんです。

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Commented by こぞ at 2014-03-02 19:30 x
同じく映画通ではない私ですが、『イングロリアス・バスターズ』も『ジャンゴ 繋がれざる者』も観ちゃってます。
日本人だから、関係ないから、拍手喝采して喜んでました。
ごめんなさい。

Commented by momayucue at 2014-03-03 00:56
英語圏の物語作品は、映画であれ小説であれ、
結局キリスト教の一神教に巻き取られます。つまり、
慈悲或いはモラルという支配と、犯罪或いはインモラルな反抗。
悪というのは、自らの価値観を押し付けた独裁とも言える神の位置で支配をしようとしてる側ではないか。では悪魔は…?

ね、不自由でしょう。
by momayucue | 2013-04-20 21:04 | もーしょんぴくちゃー | Comments(2)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
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