今日のはげみ

どうしても弁護したい、○○な奴、○○な出来事、○○な音楽

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「生理的にキライ」という一般的な表現があります。これは、「生理的に好き」と実はあまり変わらない…と仮説を立てた人がいます。生理的に好き、だと理由はあまり無くてもよくて、妄信的に好きでも一応成立する。しかし、キライ!となると、何故
か理由が必要に想えてくる。この段階で既に仮説が否定されているのですが、生理的な好き嫌いはありそうです。これを検証したいのですが、大変に難しいし、それ自体が生理的○×に曝されてしまいそう。

Web文化、BBS文化、SNS文化、と罵詈雑言はエスカレートする一方です。私も加担したことも正直ありますし、遠くからディスられたことも身近な所からディスられて驚いたこともあります。タイミングと、利害と、生理反応…これについては、確かに明確にし難い面がある。何しろ批判的なものになるので、無根拠だとマズイでしょう。
そうすると、具体的な欠点を論うのだけど、先出のネット文化以降は、誰でもそれを直ちに全世界公開してしまえる。私含め所謂素人さんでも。Amazon等には、それが物凄く目立ってしまう。書いて後悔している人もいるのではないかしら。

「ロレンツォのオイル」というタイトルの、実話に基いた映画があり、私はこれに本当にコテンパンに打ちのめされたことがあります。その悲劇、苦悩、そして不屈の愛情。しかも雰囲気として極端な脚色は無く、地味で、だからこそ骨子は事実だと想われる。いやもう号泣です。いっぱいのかけそばなんてめじゃない。
さて、いっぱいのかけそばはフィクションでした。ぼくは読んだことがあるのですが、フィクションかどうかも知らないうちから感動のポイントすら解らない冷血読者でした。
さてさて、フィクションか実話かは作品にどのくらい関わるものか。
さてさてさて、クリエイティブは、フィクションか実話かに責任を取るべきか。

2014年、ソチ五輪を間近に控えた2月、とある有名な作曲家のゴーストライター騒ぎがありました。彼は実際に気の毒な境遇で、それは作家としての能力とは無関係です。また、ゴーストライターの作品はその作曲家の、作家的表現にも、そして境遇にも沿った、しかもきちんとした作品で、ゴーストであることとは無関係です。得意になってこきおろしてる人も、発覚後に怒っている人も、ゴーストライターを擁護する人も、作品を以前から擁護するエビデンスが無い以上、時系列に影響されているし、全て結果論として巻き起こったに過ぎません。

しかし、結果は無慈悲。どんな結果も、起こり得る。そしてそこが慈悲でもあるんです。

映画にしろ小説にしろ、所謂物語をなぞるコンテンツ…もっと言うと人生の断片の作品化は、そのせめぎ合いを抜きには出来ない。ましてやモチーフとしての神話だったり実際の事件を部分的に引用してのSFだったりと、確実に何かが事実として混入する。度々私は、音楽における物語は人生の描写ではないと言ってましたが、それさえ、作家の物語には引きずられる。ビーチ・ボーイズのロックンロールが、兄弟間の揉め事に吊られて爽やかに聴けなくなる人がいても、仕方がない。いやもう本当に、どんな受け止め方があっても、仕方がないんです、咎められないんです。本来、受け
止め方すら貴賤は無い筈なんです。同情があったっていい、嘘に怒ったっていい、本人に一切同情無しに低評価だったらそれも仕方がない。ただ、感動が音楽そのものでなく、音楽にまつわるものがかかわっていたからと言って、それが何だろう。どんなアートだって、ファインに解釈だけが存在するジャンルなんてないでしょうし、ファインである強制もすべきじゃない。そんなことしたら、「干渉しない鑑賞」という干渉になってしまう。
私はあんまり質のいいリベラルを身に付けてはいないけど、
「同情するなと言っても無理でしょう。
でも何とかその先に行きたいと綺麗事を想ってますよ」
と逃げ腰に自己弁護。つまり、なるべく多くを受け入れる。作曲家の不遇に同情し、物語に感動し、もしよい曲だったらいいと、合わなかったらあんまし…と言い、作品への態度も作家への態度もなるべく変えたくない。なので普通に受け取る努力を。例えば、不遇な作曲家は、それでも努力したことを立派だと想うし、今回の写真のようにゴーストライターに指示をしていた内容は、酷い前衛作曲家であればある意味作曲そのものとも言えると想うし、寧ろこれで記譜したゴーストライターも制約どころじゃない枷で苦戦したろうなと想うし、得意になって暴いた週刊誌もスキャンダルを煽るだけで配慮なんてないんだろうなと不快にもなるし、要は、いちいちに「生理的
ななにがし」を付けるんです。

音楽の特殊性についてもう少し明らかにしたいので、何故か映画の話をもう少し。
「ロレンツォのオイル」という先出の映画。あらすじは…。息子が「副腎白質ジストロフィー」という不治の病にかかった両親。既製の研究や治療、患者の家族会で自助の姿勢だけで諦めてしまわず、自ら図書館に通い病の研究を続ける。絶望の中でも、続ける。ひたすら、続ける。そして、オレイン酸の中にその進行を食い止める可能性を見つけ、その精製をしている組織を世界中に求める。そして、ほぼ指先だけで繋がっていた息子の手を、残忍な運命から辛うじて奪い返したという話。映画の顛末はもうとんでもない感動のるつぼで、しかもその後日談を知ると更に人間肯定大会。これが全
てでっち上げだったら、流石に何ひとつ成立しない。多分、100%フィクション映画として謳われていたら、コンテンツとしては最悪です。
映画とかドラマツルギーはそうだとして、音楽はどうだろう。仮に、全聾の作曲家が絶対音感若しくは記憶で音楽作品をものする。可能です。また、何処かのある音楽作品が、全聾の作家の物語を抽象的に受け継ぐことも、あり得ます。そしてそのどれも、素晴らしい作品であることだって、可能です。素晴らしくないことも有り得ます。ただ、前提の影響をどう受けるものかは、具体的物語と抽象的な音楽とではいささか違う。
そして、全てのコンテンツが、素晴らしいものなのに素晴らしくない評価をされてしまうことも、素晴らしくないものが素晴らしいと評価されてしまうこと、それが後に変わること、タイミング、利害、生理的事情によって変わることも、あっていい。

うつろうもの。だから、正義なふりはしない方がいい。もしも事実の筈のドラマが根底からでっち上げだったら、信じた人は悪いのか。ぼくは、そうではない、と言いたいんです。騙す人はともかく、騙されたことで自分の眼や耳に疑問を感じたり、傷付いたり、した人もいるでしょう。例のゴーストライター事件でも(疑うのも悪いような酷いエピソードだらけだったし)、CD代返せ!とか…も言えなくて、もしかして自分を責めてる人さえいるかも知れない。ただ、お金ならきっともう誰も得してなくて、きちんと処理される方向に行く筈です。ちゃんと寄付に回るとか。それから、マスコミとか、ネットのさも大勢に見えがちな「何者か」は、些細なことを大袈裟に、しかも大衆の全てを代弁するかのように振る舞うけど、一寸俯瞰する
と、事件やニュースが似てるんじゃなくて、取り上げ方が似てるだけのことがある。
あの「何者か」は、暴力だ。

もういちど、誰も言ってないから、ここでたにふじが言います。
傷付いた人へ。あなたは、ぜんっぜん悪くないよ。
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by momayucue | 2014-03-29 23:55 | 今日のはげみ | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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