もーしょんぴくちゃー

アクト・オブ・キリング ドキュメンタリー再び

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異常な状況を、記憶を嬉々と探り、演じ、確かめ、とち狂ったまま静かに社会に適応
している人間を見た。アクト・オブ・キリング。異様なドキュメンタリー。

まずはじめに、この映画を観るにあたっては、なるべく事前情報が多い方がいいように感じた。普通こういうことはあまりないのだけれど、そしてそれは映画の情報不足を意味する訳ではないのだけれど、背景、後日談、なるべく知るべきだと想う。パンフレットを是非買って読んでほしい。ぼくも情報を検索でかなり読んだが、パンフレットが最良だった。

幾つも想い出したことがある。スタンフォード監獄実験のこと。ドキュメンタリーの中で起こる取材者の誘導、演出、編集にいちいち宿る欺瞞。欺瞞との葛藤。演じた「加害者」の葛藤(非葛藤も)、関わった全ての人の葛藤、観た自分の葛藤。どの程度この映画をノンフィクションとするか或いはフィクションとするかによって、告発するものの重みも変わるが、少なくとも主人公のアンワル氏程の苦境に立たされたものは、いないだろう。

スタンフォード監獄実験は、人間が悪になったり危険人物になったりするのは、実に簡単な条件で可能だという、世界で最も有名な実例。それは実験だったから、短期間で、少なくとも死者が出たりする前に止められた。しかし、今でも解かれていない最大級の歴史的洗脳手法がある。戦争だ。戦争の中、非常事態の中、殺人者は何の反省もなく生まれる。皆がその中で、殺人者になる。
主人公は、インドネシア人のアンワル氏。彼は1965年、当時のスカルノ政権へのクーデターの中で、踊った。政治的背景は他で見て頂ければわかるし、ここでは多くを書かない。アンワル青年はどんなダンスをしたのか。街のチンピラだった彼は、強いものに巻かれて、国家を裏切る共産主義者という名目にもならない名目で、凡そ千人の市民を、惨殺した。
ジョシュア・オッペンハイマー。原爆の父と呼ばれた人物と同じ名前の若いアメリカ人監督が、この映画の作り手。虐殺事件について彼はずっと「された側」の取材をしていたが、被害者達は今も怯えて語ってくれない。では、と彼は加害者側に取材を始めた。アンワル氏の登場。ここから映画は始まる。
針金による絞殺を説明するアンワル氏とその一味。ここでこうして引っ張った。麻袋につめて運び出した…と、幾らでも喋り、実演する。ジョシュアが、取材ではなく、実録の映画にしようかと提案する。何ならご自身が再現してみませんか?と。
ここ迄も悪夢だったけど、ここからが怒涛の悪夢の連続。
こうやって村を焼き払い、女を犯した。「お前には地獄だが、俺には天国だ」と嘯く奴。バラックのような商店街でショバ代を巻き上げてる奴。
多分笑うシーンなんだろうな、と言う所も幾つもあった。ぼくはとうとう笑えなかったけど、原因はぼくの笑いに対する鈍さだと想う。ひょうきん族かよと想うようなダンス。女装したデブ。
途中、TV局の取材が入る。女子アナが英雄のアンワルさんですと紹介。一方調整室では、
「千人殺した?よく頭おかしくならないな…」
とひそひそ声。この感覚が、インドネシアの最も大衆の生活に根差したものなのかも知れない。やっぱり一寸イカレてるよあいつら…、という距離感。あの時は異常な状況だった、と言い訳しながら暮らす。

取材というか、彼等の製作が進むうち、恐ろしいことが起こる。少しずつアンワル氏が、気付いていく。もしかするとこれは…俺がやったこれは…。アンワル爺さんは、うっかり自分に置き換えてしまった。
俺は恨まれている。俺なら俺を恨む。俺が今それをされたら、恐怖と絶望に泣き狂うだろう。
ギャングの尋問を参考にしたらしきシーン。自らが暗い部屋で目隠しをされて殺される演技で、限界に達したアンワル氏は、右手をぱたぱたと振る。SOS、もう、出来ない。殺す役の取り巻きは、心配し水を用意する。水なんて、飲める状態じゃない。

カスケード状の滝を背景の幻想的シーン。全てがゆっくりと動く。ダンサーが桃源郷のようないでたちで舞う。首に針金をかけた亡霊がふたり現れ、金のメダルをアンワル氏に与える。
「私達を殺して、天国に送ってくれて、ありがとう」
神の代理のようなアンワル氏が、おごぞかに両手を上げた。
そのラッシュを観たアンワル氏は、感動的だ、と呟いた。しかしその言葉がどんな意味なのか、ぼくには解らない。
彼は、突然孫を呼んで、自分が殺されるシーンを見せる。ジョシュアが心配するがやめない。
独りになり、ジョシュアに語りかける。
俺は、罪人だということなのかな…。
俳優の名演技でもかくありやというように、眉間に力が入り、涙を抑えることが出来ない。

ラストシーン。夜。冒頭に登場した建物の屋上で、夜の屋上で、虐殺をした屋上で、
彼は、2度、吐いた。


そこで、映画は終わる。



控えめな演出。ギャング映画を参考にしたシーンで、ノイズが小さく小さく鳴っている。それからラッシュを孫達と観た後のアンワル氏が、涙を流しながらジョシュアに語る時、真正面に据え付けられたカメラ。夜事務所に入る所のフレームイン。しかし、この悪夢のような映画に於いては、どちらにしろ全てが欺瞞であり葛藤であり鏡なのだ。或る人は、こんなものを作って被害者の気持ちを考えたことがあるのか、と糾弾する。言う迄もなく、誰もが加害者に「なり得る」という恐怖の話だから、指摘は正論だ。監督は考えてないことはないだろうが、アンワル氏は、ずっと見ないように心に蓋をしてきた、切り落とした首の眼が自分を見ていたことに、うなされながら。ドキュメンタリーとしても退屈だとかの感想も見かけた。TVでこういう番組をやってたらチャンネル変える人はいるだろうなとは想われる。ぼくもそうかも知れない。取り敢えずカネを払って懸命にスクリーン上の出来事を追いかけ、そして、監督の手法に舌を巻いた。随所で編集が効果を上げている。一方、ドキュメンタリーとしては当然だが、監督をドキュメントしない。取材行為すらなるべく隠す。なんて卑怯で、観客と同化させた立ち位置なんだ。最大の編集がアンワル氏の発見だ。何故彼は嬉々として過去を語るのかについて、憧れのアメリカ映画だからと言う論調を見かけたが、実は彼は41人目で、それ以前の加害者も、例外なくああしたこうしたと表現したのだ。つまり、人間はそういうものだということがきっと心理であり真理なのだ。

この映画の舞台、インドネシア。ジャカルタのような大都市を有し、平和に暮らす国民。デヴィ夫人のような芸能レポーターの恰好の餌食になる人物もいるが、彼女の当時の体験はきっと、今や国民にとってみれば、或いは日本にも米国にも、特異な事実だ。しかし、事実だった筈だし、どの国だって叩けば眼を貫く埃が出る。
演じた映像をアンワル氏はその都度観た。しかし、実際にこの「アクト・オブ・キリング」を観たのは、かなり後のこと。驚いたことにアンワル氏のチャンスは、あのアルジャジーラからもたらされた。ぼくもその場面を観た。凡そ25分に渡る切っ先鋭い放送局の取材に対して、前半、本編のラストシーンで見せたアンワル氏の焦燥は、殻の奥に潜められている。人間そんなに簡単に心を開くものじゃない、ジョシュアとアンワル氏との信頼関係は、映画中のそれ程多くない会話だけでわかる。アルジャジーラだかなんだか知らないが、俺は、やるべきことをやったんだ、後味は悪くても、大義とはそういうものだ…。そしてラストシーン、局のアレンジしたScypeでジョシュアとアンワル氏は再会を果たし、映画の本編を観るのだ。
監督によると、アンワル氏は映画の完成版を恐れていた。しかし映画は全世界で話題になり(アカデミー賞の影響で、ついにインドネシア政府は、65年9/30からの虐殺を悪しき事件だと認めざるを得なくなった)トロントの映画祭には、自ら赴くと言ったが、ことはそう簡単にいかない。そうだろう、あの映画の主役がここに来ているとなったらどんな扱いをされるか…。そこで、奇策に長けたジョシュアは、取材予定があるアルジャジーラにScypeでのアレンジを託したのだ。ジャカルタのホテルの一室で、1200時間の撮影をした殆ど詳細を憶えていないであろう自分の「アクト」を、159分のバージョンで観た。
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彼の殻は破れ、忘れていた取材の日を想い出し、散々嗚咽し、ここに全てがあると納得する。ジョシュアはデンマークから、
「勇気を出して世界中に向けてこの歴史と物語を語ってくれた貴方の正直さを、決して忘れません」
と声をかけた。罪を憎んで人も憎んだのかわからないが、ジョシュアにとってアンワル氏は、取材を開始して41人目に漸く巡り合えた一人の男なのだ。

スタンフォード監獄実験は実験だったから止められた。しかし、もう一度書きます。解かれない最大級の洗脳が、戦争或いは、統治の転覆を図るものを武力排除する、テロリスト対策。兵器の消耗戦、兵士のみが殺し合う、…どんな体裁が条約であっても、結局は利害の為の殺し合い。殺すのが国の為にだとしたら、その国は正しいのか、殺し合いをするということが、国の理念に含まれているのか、つまり国家の利害の為なら殺し合いをするのが正しいのか。
利害?防衛?自衛?信じない。国家なんて形を信じない。望む人の方が多数派だということも承知しても、ぼくは、それらの為に殺し合いなんて信じない。
ただそれでも、身近な誰かの為に、取り巻く環境の為に、殺すなんてことをしてしまうかも知れない。ぼくは自らに洗脳されている、自らに脅迫されている、自らを罰しながら、他人を謂われなく罰している。

ぼくが想い出したものは、本当に多様だった。海と毒薬。ソフィーの選択。戒厳令の夜。キャタピラー。腰まで泥まみれ。ダークナイト。ゴールデンボーイ、ETCETC…。
つまり、国家の欲と体制の物語、
極限状況の群集の物語、
一人の老人の絶望の物語であり、
全ての人間性の絶望の物語であり、そして…、
絶望を、闇を知ることによってのみ見出せる、種の希望だ。

参考

ところで、2014年7/9、インドネシアで大統領選がある。この結果如何では、「あの」1965年がまた来てしまうかも知れない。

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by momayucue | 2014-06-01 22:18 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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