ほぼ彼と同世代の、たにぴ@もまゆきゅです。
Nightfly/Donald Fagen。超名作。
アナログのレコードでも聴きまくったし、CDも自分史のかなり初期に買った部類です。
世界一壮絶な編集を施すミュージシャンと言えば恐らくアラン・パーソンズだけど、
スティーリー・ダンのある時期から、
編集成果のクオリティもさることながら、音楽性の馬鹿高さから、
レコーディングたるものかくありきという指標になった、
何しろ完璧なチューニング、タイトな全ての音。
JAZZよりもJAZZっぽいヴォイシング。
「ガキでもいいけど、せめて、比喩についてくる位の生意気でないと駄目だな」
間口なんて広げない。誰にでも受け入れられるサウンドは志向しない。
だけど、例えばAORファンにとって、
ナイトフライを理論的にくさすなんて不可能な位置付けにされ、
それ故、AOR談義をしようって時にナイトフライを持ち出しても、
あまり面白くならない。
その筋のスタンダードなわけです。
ぼくは、その後のスティーリー・ダンの曲も、ドナルドのアルバムも、すごく好き。
特に甲乙をつけるつもりもない。
だけどもし1枚のアルバムについて徹底的に分析した本が出るというなら、
このアルバムについてだろうとは想います。
で、まさにその本を、冨田恵一さんが書いたというね。凄いな。
あとがきによると、Ajaのあとがきに冨田さんが書いた解説が、
西寺郷太経由で出版関係者に企画が渡り、
この本になった。
ってことは、比較的短期間で執筆されたのかな。
本日のタイトル通り、いちゃもんをつけたいんです今日は。
わざわざ批判するのはぼくにはとてもとても珍しいことなんですが、
敢えてそれを試みたいと想う。勿論当社比で。勿論個人の感想で。
企画は、ありだと想う。だから買いました。期待も大きかった。
人選は、冨田恵一か菊池成孔か、あとは…少し上の世代で、井上艦とかになるのかな。
冨田ラボさま、日頃からインタビューを読んでも軽いエッセイを読んでも、
なかなかいい感じでしたよ。ただ、ホントに堅い文体のものもあって、
これは、文章以前に視点として価値も読者の関心も違うんじゃないかと想ってた。
ちと訝ってたんです。
具体的に。
坂本龍一がjobinの作品を集中的に演奏していた時期を経て、
テクノ的なサウンドから大きく舵を切ってきた時期がありました。
数名の名うてのクリエイターが、ルグランになぞらえたり、大きく括ると、
「オーケストレーションにおいて、未曾有のレベルにいる」
と評してる訳ですね。べた褒めなんです。それもまあ面白くはないかも知れないが、
冨田恵一は、良くない方向で異彩を放っていた。
…今こうしている教授の音楽的モチベーションは、何故ジョビンなのか。
フランスの近代からこう来ている独特の和声が、ジョビンの系譜とこう繋がり、
更に、あれがダメになりこれが行き詰ったこの時代に、現在ここにある。云々…。
こう書くと、面白そうでしょう?ところが、結果的に良くなかった。
理由は、モチベーションという言葉が苦手なのもあるけれど、
消去法で彼が到達した教授のその時点でのモチベーションに、
全く音楽的でない単なる態度論を述べて終わっていたから。
しかも、音楽の語法を使って。
でも、インタビューとか軽いエッセイだとノリノリでとても楽しい人物です。
その冨田さんが初めて出した本が、「ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法」という企画。
冒頭でもう、
「楽譜やヴォイシングにはなるべく触れないで、
聴いて理解出来ることを解説したい」
と書いてあるので、最も皆が(ぼくも)期待する、
あの独特のスティーリー・ダン・サウンドを解明するのでは無いんだな、と覚悟しました。
そして本文。時代背景と、メンバーの事情と、嗜好と、レコーディング状況。
面白そうでしょう?
それに、ここで誰それのサックスがとか、ギターのこういうフィーリングが欲しいとか、
確かに聴けばわかるし、ぼくだってかなり微細なこと迄頭にCDが出来てるアルバムだから、
あらためて聴き返さなくても音が浮かぶけど、やっぱり読みたかった。
そういうもんじゃないですか。
しかしすぐに、はっきりと、これはダメだ、と判る壁にぶち当たる。
すぐに何に当たったかですが、「曲のどの部分」、というのを伝える時に、
○:○○の辺りで、…とか、時間表示をするんです。
よ、読みにくい…。
楽譜は使わないと最初に断ってるんだけど、いっそ楽譜にして欲しかった。
その個所の2〜3小節を、歌詞つけて書いてくれるだけでいいのに。
いや、誰もが楽譜読める訳じゃないから、もしかしてこの記述の方が汎用性ある?
仕方がないのかな…。
とかぶつぶつ想いながら、進む。
次に、どうも違う…と感じるのは、各曲の詳細について、
上記の通り時間で指定しながら、
ここでこれが起こる、そのプレイヤーはこうで、当時はこういった新鮮さが…
…うーむ。
好きなタイプの筈です。ドキュメンタリーとか。
いやもう百科事典だって、資料だって、ぼくはけっこう好きです。
何故ノレないんだ?文体かな…まあそれは多少ある(当社比)。
しかし…。
何となく、煮え切らない、もやもやとしたノリきれなさが全体を覆っている。
ユーモアも、愛も、精緻さも冨田さんにはたっぷりあるのに。
この本に感じるのは、作品とか構築とかよりも、
情報の集積と、詳細なマニュアルに則った対処。ってことになるのだろうか。
一旦こういう印象を持ってしまうと、いきおい批判姿勢が増す。
当社比とか言ってても、言いがかりっぽくもなる。
曖昧な感想の応酬になっちゃうんです。
例えば…以下。
だって、Nightflyは80年代的といってもあくまでドナルド・フェイゲンの作品中であって、
80年代全体を俯瞰して観た場合、それは本書の中でも指摘している通り、
全然何も代表してない。80'sサウンドのプレ期と言いたいのかも知れないけど、
このクールな音像が云々を80'sと並べることに、意義もないのでは?
テクノロジーがたまたま80'sだとしても、
それすらロジャー・ニコルスというエンジニアの独力に近い。
アセンブラを書くレコーディング・エンジニアってのも滅多にいない(ミュージシャンにはたまにいる)もの。
要するに変遷の一部だという、その意味では80's全盛の沈黙という符合は面白い。
でも、面白いだけで、時代との関連というよりは、
スティーリー・ダン史、ドナルド・フェイゲン史の中で、
疲労が溜まった、だけの時期と考えるのはぼくだけだろうか。
そして、ここ日本で、本人や関係者への取材も一切無しに、
資料にあたるだけで1冊ものするのなら、
やっぱりもう少し自分の強みっていうか、和音のことをもっと厚めにして、
事実を語るべきだったのではないかな。
或る個所でのギターがこのフレーズを追っている理由を推理して、…終わり。
検証の取材は出来ない。
それならば当然ドキュメンタリーではないが、
残念ながら(当社比では)トリビア集にも、
ひとつの作品をめぐるドラマにも感じないんです。
物凄く、小さく小さくまとめてしまっている。
この、サイズが小さいという現象は彼の作品全般に感じてて、
有名な、ミーシャの曲でも、
ドラムの打ち込み方が、相当に詰め込んでて、
まるでスティックをシンバルに振り下ろすような、
タムをどかどかぼかすかっと回すような、
詳細な情報が集積されて、微細な検証を施して、
でも、熱が無いんだ。素晴らしいんだけど、小さい。
だからぼくは冨田恵一の最大の魅力は、全体のアレンジとか、和音とかだと想う。
彼の言葉だと、「管理」となって、一寸萎えるのだが…。
で、音楽家としての冨田さんは、ぼくは好きだし、アルバムも持ってるけど、
この本には、優秀なプロデューサーがもっと関わるべきだったと想う。
ぼくが感じたのは、
あとがきをあとがきじゃなく最初に持ってくるだけで、
彼のユーモラスな面が伝わって、その後の文体も受け止め方が変わる。
定型化しようとする文体を、もっとはみ出させる。或いはですます調に無理矢理させる。
である調は彼の場合、とても他人行儀で、形式的で、そっけなくて、退屈だ。
いや、編集者がもっと頑張ってればよかった。
プロの物書きじゃないんだから、味を活かしつつ方向性をつける誰かが必要でしょう。
小説家にだってつくぜ。
今いいこと考えたよ。
この企画は、ユリイカとか美術手帳がやって、
冨田さんも書いて、菊池成孔も書いて、井上艦も寄稿して、
いっそバロウズ路線から浅田彰も寄稿して、…。
これ、盛り上がりそうじゃない?やってよやってよ!