もーしょんぴくちゃー

ウォーム・ボディーズに、ゾンビ愛とそれを超えた恐怖を観る

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考え込んでいる、たにぴ@もまゆきゅです。

何にって、「美」です。
アートって、日本だと芸術とか美術とかだけど、近代を経て、現代のアートってかなりコンセプトが重要で、世界に対する比喩、感情に対するイコンという要素が成立していれば、美しくなくても、不快でも、考えさせられるもので、アートとして扱われること、あるでしょう。でもって、批評にもそういう機能って多聞にあるので、批評もアートと親和性が発生する。

「美しい」という感覚は、あれ何なんだろうな。
すんごいヤな奴だけど魅力的とか、すんごいイイ奴なのに、全然魅力がないとかもあるし、引き付けるだけだったら、単純にテクニックとして学ぶケースもある。そしてぼくは、このテクニックのようなものが、好きじゃない。誰でも学んでうまくなれるべきだし、学べないものもある気がするけれど、誰でも出来る大切さは、あまり修行的なものじゃない、べきだ。修行は、快楽でもある。でも、あんまり努力とか頑張るのじゃない日常的な感性が、美しくあって欲しいんです。願望です。

吉本隆明と糸井重里の対談で、「悪人正機」という本があって、この中の、
「会社なんて、一寸建物が立派であれば、それでいいんじゃないでしょうか」
という隆明さんの言葉に、物凄く衝撃を受けたんです。
うまく説明出来るか…、それはつまり、庶民的感性の全肯定だと。他人を羨み、自己否定したり、逆にくだらないことで得意になったりしちゃうものだと、人間は。仕方がないじゃん、と。
オウム真理教の事件の頃、隆明さんは、騙されて操られるのは、仕方がないのだ、誰かがその心だけでも肯定してやるべきなんだという趣旨のことを発言してました。被害者の方々に反論されたら謝るしか出来ないが、そうでない市井の批評は、全て喧嘩する、という心意気でした。大本で騙してた言わば教祖の悪はあるけれど、その他の人々は、…解釈違うかな、極論すれば、戦地に行かされた兵隊と同じだ。彼は戦争を知っている世代だから、戦争に加担したものが全て悪とされたら、疑いながら、絶望と希望を行き来しながら死んでいった友達を、心情的にも見捨てる訳にはいかなかったのだと想います。
「そりゃあねえだろう、と思うんだよ」
です。

そんな訳で、殆どの人類は(多分)ゴキブリとか嫌いでしょ。あの容姿と動き方には何の罪もないのに、生理的に受け付けない。ぼくもですよ勿論。それは変わらないんだけど、一寸異変が起こってるとこなんです。ゴキさんに対してじゃないよ、ゾンビ、にです。

「ウォーム・ボディーズ」という映画があります。
青白い元イケメン風な腐りきってないゾンビが、そのイケメン故に、かどうかわからんが人間に恋をして、少しずつ感性が人間に戻っていき、という話です。ご都合主義でもあるし、ロメロ等の監督した思想的に深いゾンビに比べると、とるに足りないものなのかも知れない。何よりも、ゾンビものが好きな人達が、彼等と共存する世界を映画化しただけという軽さも感じます。そしてその夢を果たす為に、何かとんでもないものを犠牲にしたのではないかと、ぼくは少し怖い。

主人公は、R。勿論もとは人間。噛まれ、ヒトの記憶を失い、ウーとかギョーと唸ることしか出来なくなる。ゾンビ友もいるけれど、うーとか言うだけ。人間を見ると、食いに行く。実際に食う。そんな日常が描写される。その中には、ヒロインの恋人もいたよう。
一方ヒロイン、ジュリー。彼女はRとゾンビ一味に囲まれ、あわやというところで、衝撃が。
Rは、ジュリーに惚れちゃう。はい、「ゾンビ・ミーツ・ガール」な話なんです。Rはジュリーを食べず、庇い、ゾンビの振りをしてゾンビを欺いて逃走させちゃう。

こんな映画に吉本隆明を引用していいのか?

当然のことながら、ゾンビ世界と人間世界は相入れない。お互いが敵です。Rはロミオ、ジュリーはジュリエットとして、それぞれの世界の掟を破ってしまう。殺し合わない。しかもそれはシェークスピアもびっくりの展開になっていて、それぞれの世界が、世界ごと、徐々に変わっていってしまう。敵対関係が変わろうとしているんです。Rの仲間は、Rの行動に刺激され、何故食うんだ?食わなくていいんじゃないか?と自らに疑問を持ち、もと人間の記憶を微かに微かに取戻し、垣根を超える。そこからはもう怒涛の痛快の展開です。あの恐ろしいジョン・マルコビッチが率いる人間軍も、愛には勝てない、降参。

しかし、この映画自体は或る意味安全なところに留まるように出来ている。ヤバいところに立ち入らないように。

舞台は実は3層の構造になっています。人間社会。ゾンビ界。そして、そのゾンビの中でも階級が上なのか下なのか、ゾンビ度が高くて自分の皮膚を食った骸骨と筋肉だけみたいな奴等がいる。彼等は決してときめかず、ウィルスそのもののように永遠に人間を襲う。そして一般ゾンビとも派閥構造になっている。どういうことかと言うと、ゾンビと人類は和解していくが、その為に絶対悪の立ち位置としてのガイコツを用意しているんです。彼等の存在がなかったら、どんなにコミカルでもシェークスピアと同じ悲劇になった。でも、絶対悪って、誰が決めるんだ?彼等も自らのアイデンティティーで行動している、それ以上でも以下でもないじゃないか。

Rとジュリーは、ゾンビと人間。但しイケメンに限るわけです。もしも彼女が美人でなかったら、人類とゾンビは和解しなかった。では、和解しつつあるうすのろなゾンビ達は、どうなる?とりわけ、女性ゾンビ達は。そうこれは、シェークスピアの懸念でもあった。所詮はレオナルド・ディカプリオとキャリー・マリガンの物語なんです。…あれ?違うな。あれはギャッツビーだったか。と、と、兎に角そう、ゾンビ一般にとっても、人類一般にとっても、いつ食いつかれるかわからない永遠の問題を棚上げにしている。なんでこんなことをこんな映画に私ゃ言わなきゃならないのか…、だってこれはこの映画の罪じゃなくて、物語を求める人間の、美を求める人間の、アートにまつわる根源的な罪だから。もはや「ウォーム・ボディーズ」の落ち度とかじゃないんです。

ある人がこの映画の感想に、ゾンビは無気力な現代の哀愁サラリーマンそのもの、という文章がありました。それは実はジョージ・ロメロの頃から変わらず、いやロメロはもっと、サラリーマンどころか現代人全てを比喩し、のろのろと歩く、1対1なら俊敏な人間に殺されるのを待つだけのゾンビと、それと対峙する人間の種類を幾つも描くことで、それこそシェークスピアから変わらないヒトを比喩しました。
別な誰かの「ウォーム・ボディーズ」の感想には、自分はもうガイコツの奴等にすらシンパシーを感じる、ともあります。そりゃ凄いな。でも、ぼくもそうかもな…それにしても、この言葉にも明らかなのは、従来の、もう還ってこれないゾンビが、ガイコツのヤツになってて、「ゾンビってのそのそしてて可愛い」みたいな感性のモラトリアムとしての機能を得ただけなんです。であればあのガイコツ達の不憫さにも、そりゃあねえだろう、と共感したくもなる。
もまゆきゅバンマスのゆーこさんは、
「ゾンビは、噛まれて感染したゾンビが人間を食いに行くときに、脳の隅に残っているかつての家族や恋人を食いに行くところが悲しいのよ。そこに切なさがあるのよ」
という、真っ当なゾンビ愛好家です。タレントの真木蔵人さんは、
「うーん、ゾンビねえ、わかんねえなあ。…いやもしうちの子供がゾンビになってきたら?いいよ別に。オレ食われるよ」
この全く相反するゾンビ観を持つ2人は、どうやら正確にゾンビの本質を見抜いてるんじゃないかなと想います。

ゾンビは、行ったっきり戻れない存在。ではヒトはそれにどう接するのか或いは接しないのか。
クジラがもし人間と同じ知性を持っていたら、食うかどうか。ぼくだって鯨を何となく可愛いと想うけど、本音では豚も牛も羊も可愛い。でも食う。
ホントかどうかわからない聞いた話だけど、酪農の方が語るこんなことが。
「食肉の為に牛飼ってると、あいつらは自分がやがて屠殺されて食われるのを知ってるみたいなんだよ。だから、或る日トラックが迎えに来ていよいよ今日は自分の番だって気配を感じると、暴れるんだ。でもね、オレがそこでね…苦しい顔してると、困らせない為に、覚悟を決めてトラックに乗るんだ」
全然本当かどうかわからないです。ぼくの勘違いした話なのかも知れない、でも、あっても全く不思議じゃないと想います。牛は鯨と違うとは、ぼくは到底想わない。ゾンビ世界との和解は、ゾンビものが歴史を重ねて恐怖のメタファーでなくなったからで、結局は絶対悪をあつらえることで出来た拡大解釈のひとつなんだ。次第に血流を取戻し、体温を取り戻すRのラブロマンスは、逆説的にヒトの醜さを垣間見せてくれた。そこ迄考えて嘆くぼくもどうかしてるけれど、吉本隆明風に言えば、
「会社の建物が立派だったら、まあいいんじゃないか?」
誰もが誰もの小市民っぷりを生きるってこと。娯楽映画として、ぼくは笑って観たけれど、
「但しイケメンに限る」
という言葉の背景にある2000年の人類の美の残忍さと、小市民的な納得感とを、突き付けられ、試されてたとも想うんです。


リジー・ベラスケスさんって、知ってる?
子供の頃ホラーとかオカルトが大の苦手だったぼくは、サム・ライミのあるヒット作から一切その手のものを怖がらなくなった。比較も不自然なんだけど、リジーさんは確かに一目惚れされる容姿ではないでしょう。彼女は恐らくぼくには想像もつかない過程を経て病気に起因するそれを打ち負かし、強く、優しく、美しく、生きる。そしてその美しさって多分、その前に「強く」があるからなんだ。どうやって得たものなのか、リジーはとても強くて、ぼくはその強さに、アートを、美を、感じる。残念ながら容姿はそうでもないけれど、あんな人と友達になれたら、と想います。それだけの魅力を、たいていの人が感じる筈だ。小市民はイケメンにすがるのさ。立派な社屋とか、しょうもない優越感でも、強く、優しく、肯定し、娯楽を肯定する。エンジョイこそ全てだ。
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by momayucue | 2014-12-31 01:18 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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