もーしょんぴくちゃー

「運命の女」とエイドリアン・ライン

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Adrian Lyneという映画監督は、所謂大作主義ではなく名作主義ってことになるのだろうか。もののわかった大人をターゲットとした、エロティックで小市民的非道徳な映画を得意としている。ヒット作の中でも例外なのは「フラッシュダンス」だけれど、これだって、怪物も刑事もマフィアも出てこない、地味な物語だった。

さてさて、ぼくは、マディソン郡の橋だとか、ナイン・ハーフだとか、渡辺淳一の小説の映画化とか、あんまり好きじゃなかったです。あの正しいふりみたいなの、美しいふりみたいなのが、どうも引っかかる。間違っているけれど、美しいでしょう?という佇まいが。別に間違ってたって美しいものは幾らでもあるし、ぼくだって間違ってるけど美しいものは好きだし、寧ろ「間違ってる」ってだけで結構好きかも知れない。だから、マディソン~淳一的なものがしっくり来ない理由は自分でもよく解ってないけれど、必要以上に説き伏せようとしてる感が苦手なのかな…。多分、そんなところだと想います。喜○郎さんの音楽が苦手なのとあんまし根拠は変わらないのかな、わからん…。

でまあ、エイドリアン・ライン監督の映画も、あまりピンと来なかった。沢山観てもいないし。だから何故こんなタイミングに、新しくもない「運命の女」という映画を観たのかも少し不思議。いつ観ても手放しで楽しい映画でもないし。
ただ、観たんです。

原題は、"UNFAITHFUL"。背徳とか、不誠実とか。
ダイアン・レイン。リチャード・ギア。アメリカの、金銭的にも恵まれた、小学生の男の子も含む、幸福な家庭。30代半ばの美しい妻は或る日、マンハッタンで、若いフランス人の男に出くわし、躊躇いながらも、堕ちてしまう。少しずつ、ぎくしゃくしていく夫婦仲。夫は、若い男に直接話をしに行き、勢いで、頭を凶器で殴ってしまう。男はあっさりと絶命。隠し通せるものではなく、やがて殺人事件の捜査で刑事がうろうろし始める。全ての隠し事を取り払い、最期はお互いを見つめ合えた夫婦。しかし彼等は、逃げたのだろうか、自主したのだろうか。どちらとも取れるエンディング。

ぼくが読んだ巷の評価は、何処から見ても真っ二つでした。ダイアン・レインが気持ち悪いvsダイアン・レインが素晴らしい。リチャード・ギアが冴えないvsリチャード・ギアが新境地。サスペンスでも何でもなく退屈vs情感豊かで美しい。
この監督は、これ迄比較的、家庭を信じない、衝動的な人物をばかり描いていました…かな?合ってる?沢山観てないって言ったでしょ、知らないんですごめんね。ただ最初に触れた「ナイン・ハーフ」はライン監督の印象的な映画ですが、それとこの映画を比べると、映像のひとつひとつの馥郁が、随分違うんです。俳優の凄さなのか…そう、ぼくは実は、ダイアン・レインもリチャード・ギアも、完璧に登場人物になったと想ってるんです。
どうもこの映画は、…一寸躊躇うんだけど、好き、です。

ダイアン・レイン。遂に一線を越えてしまった夜。帰りの電車の中で、彼を想い息苦しくても、細胞が幸福を感じてしまう。罪悪感の中で、どうしても恋に呑まれてしまう彼女は、独りで、身体が反応してしまった。やがて取り返しがつかない罪に苦しみ、夫をも罪人にしてしまった自分に苦しみ、額に、眉間に、苦悩がいつもいつも滲んでしまう。彼女に感情移入したくない人は大きく二つに分けられる気がします。ひとつは、若くてその苦悩が全く自らの内に見出せない善良な人。もうひとつは、ああいった人に傷付けられた過去がある人。
リチャード・ギア。どうして妻が不倫に走ったのかわからない。家族の為に働き、それを苦とも想わず誠実に愛してきた、年上の夫。成功者だが大物風でない好人物の彼は、妻の証拠を握り、若いフランス人の男に直接逢いに行く。くよくよと、しかし興奮せずに話を出来るかとおもいきや、そこに妻の痕跡、…とりわけ自分がプレゼントした大きなスノーボールを見付けた時、張り詰めていた糸は切れた。我を失った彼が正気を取り戻した時には、そのスノーボールで彼を撲殺してしまっていた。たった一打で、死んでいた。

人間は、本当に弱いです。生身も、心も。
魔術的なものでなくとも、ふとしたことで恋におちてしまう。背徳だって構わない。しかし、身を投じるのはとても怖い。だから大多数の人は、全てを投げ打ってしまうことがない。
そして、頭をふいに殴られても、かわすことも出来ず、血を流して死んでしまう。映画のように拳銃で頭蓋骨を吹き飛ばされなくたって、どくどくと、血がゆっくりと流れる。
逃げようとしたり、自主しようとしたり、そのどちらも選ぶことを恐れてしまう。その理由は、失われるものが自分ではなく自分の家族の生活だったり命だったり、だからだ。

それにしても、確かにこの監督の物語は、フェアじゃない。何しろ女性を堕落した生き物に、男性を誠実だが惨めな生き物に描写してしまう。まあそれも幾つかのぼくが観た映画の話だけの情報だけど、そのフェアさは実は、額面と逆に作用してるんです。つまり、移り気で、倫理観よりも欲望に忠実で、一旦進むと悪をも恐れない女性性は、皆物凄く魅力的で、つまり正しい。欲望もある種倫理的動機を必要とし、常に罪悪感と折り合いをつけている男性性は、女性性に惑わされながら、世間体にも挫けている。正しいようで、本質的な吸引力を持っていない。善が大方を支配する社会で、小さく陣取りをしていく悪は、その磁場だけが武器だから、否定しても必ず出現する。

では、悪は素敵だ、という結論になるのかというと、そんなわけはなくて。

秩序はマジョリティで、"UNFAITHFUL"はマイノリティであり続ける。それは時には、悲しい。哀しい以外の共振も共感も共鳴も出来ない。ダイアン・レインも、リチャード・ギアも、醜悪でちっぽけだが、悲しい。どうすればよかったんだろう…、何も起こすべきではなかったに決まってる。では、イタリア映画「自転車泥棒」ならどうだろう。社会の無情や民衆の貧しさを描いた名作で、自転車を盗まれ自らも盗もうとする父親の悲しさを、誰もが理解するでしょう。しかし事が性愛絡みとなると、そんな風には誰も理解しない。だから尚更、彼等は孤独になっていくだけです。

ぼくも同じ。ただ、この映画が少しだけ違うのは、一切のフェロモンを封じたリチャード・ギアの無力感。あまりにも生々しいダイアン・レインの演技に、存在感を消すことで全体を浮き上がらせた。今回はエイドリアン・ライン監督の演出が変わったんだろうか。それとも、ぼくが歳を取ったのか。
どんなに時代が変わっても、性風俗ビジネスは絶えなかった。自転車泥棒はどんなに情状の酌量が出来ても犯罪だというのに。いや一寸待って、性風俗と性愛は同じ?違う。違うから、ダイアン・レインは夫と寝られなくなったんだ。自転車泥棒も、風俗も、不倫も比喩にはならない、何か部分的に共通点があったとしても、補間し合える比喩は構築出来ない。

みんなそうなんです。何にも喩えられない。

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Commented by scarpiaii at 2015-05-10 23:27
エイドリアン・ラインなら、『ジェイコブズ・ラダー』がオススメ。
Commented by momayucue at 2015-05-11 18:47
知らない~タイトルうっすら聞いたことがある程度~。
どんなジャンルなの?
by momayucue | 2015-05-10 22:54 | もーしょんぴくちゃー | Comments(2)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
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