もーしょんぴくちゃー

「フォーリング・ダウン」何処にもサイコ、誰もがサイコ

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ヒッチコック監督の歴史的・記念碑的な傑作、「サイコ」には、モデルになった人物がいました。1940年代から50年代にかけてのその人物の異常な犯罪は、一般には、母親の極端な宗教理念に基づく教育が原因とされています。あまりそこを掘り下げる気はここではないので、さくっと論点だけ言いたいのですが、この事件は、1960年ベトナム戦争が始まる以前の出来事です。

果たして全ての犯罪に時代背景や幼児体験が関係あるのかというと、そこは何とも言えない。しかし、心理学的な解釈をすることはとても多い。先進国代表のアメリカを例に見てみると、大きく2つに分かれます。ひとつは、ベトナム戦争。もうひとつは極端な宗教観。

ハンニバル・レクターは当初、全く動機なく出現した天才犯罪者であり犯罪学者という設定でした。圧倒的な技術と博識で、猟奇殺人ジャンルの象徴となり、ヒーローになります。ところが、スターになった犯罪者を、原作者のトマス・ハリスは、闇の世界から外に出さなくてはならなくなりました。小出しに、彼の人生を語りだし、そこで妹と当時の戦争と人間の本質に対する感情がレクターを作ったと「後付け」しています。レクターの怪物ぶりは破格ですが、もっとスケールの小さい猟奇殺人であれば、"8mm"というニコラス・ケイジ主演の映画には、
「理由などない、俺はこうなる為に産まれたのだ」
と叫ぶサイコパスも登場します。何であれ、奴等は闇を大事に抱えながら、な訳です。

さて、ベトナム戦争。タクシーの運転手トラヴィスは、ベトナム帰還兵。
1960年から長く続いた戦争は、兵士を、国民を、政治を、つまりアメリカを丸ごと疲弊させ、結局彼等は屈服しました。密林で仲間を失い追い詰められハッシシに依存したあげくに、帰還したトラヴィスや大勢のトラヴィスのような人間達が、悪夢に苛まれるか眠れないひりひりとした日常を送る。しかしトラヴィスのサイコ性は戦争由来なのかどうか…だってさ、彼女を誘った映画がXXX(ポルノ)だなんて、その読めなさは戦争と関係ある?ただぼくに解るのは、幻視的なアートに影響されたなんてのどかなものでなく、奴は全くいかれてたってことです。自由とか解放とかの象徴ではなく、犠牲なんです。

生まれつきのシリアルキラーがいるのかどうか、そんなことは映画から踏み込める議論じゃないけれど、自立型の殺人者は、突出した人格とそれを形成している背景があるのは、ある程度当て嵌まるでしょう。

その一方、「没個性的な異常事態」というものがあります。

ストックホルム症候群や群集心理を題材にした、アル・パチーノ主演の「狼たちの午後」は、N.Y.で実際に起きた事件の映画化。銀行強盗に失敗した男が、人質と立て籠もるうちに、反体制のスター扱いされていく。こちらは強盗をやっている男の方が遥かにまともで、取り巻く世間の過熱が異常。
ここに見出せるのは、ロックンロール。やっちまえ、という衝動。「狼たちの午後」で特異だったのは、犯罪者側というよりも寧ろ、TVを通して犯罪を取り巻く熱狂でした。かねてからぼくが不思議に想っていたのが「ライヴ観戦」という表現です。コンサートは、「観戦」なの?何にしろヒト種は、争いに「盛り上がって」しまうDNAを持っている。

ここで非常に地味な映画を。「フォーリング・ダウン」。唯一マイケル・ダグラスが無様な犯罪者を演じている以外は、これと言ってスター俳優がいない、結末もどんでん返しということはなく、予感は全て的中する、唯々哀れな話。
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正義感が強く、真面目(なのかどうかは微妙だけれど)なサラリーマンが、真夏の運転中に渋滞にはまる。妻子に逢いたい、せめて遅れるから電話を、しかし小銭が無かった。彼は小銭を得る為に韓国人の店に立ち寄り、コーラを買うが、電話する為のコインが貰えない。そして何よりも、店員の横柄な態度…。彼は、やがて、観客の不快感を一身に背負って、キレる。店員の護身用バットで店内をぶち壊し、コーラにカネを払って、立ち去る。
その後、彼は街のギャング2人に強請られて、またキレる。今度はバタフライ・ナイフを得た。ギャングの仲間にマシンガンで襲撃されたが、そいつらは車の運転を誤り、自滅。彼はそこでマシンガンを持つに至る。
ここ迄来たらもう収まらない。融通の利かないジャンクフード屋に、電話ボックスの空きを待てず毒づくビジネスマンに、制御が利かなくなっていく。乱射。次第に観客のぼく達も完全に引く程エスカレート。軍の払い下げ品を売っている店では低能な差別主義者の店主に同類扱いされ、反論した処相手はキレて、防戦の挙句に、殺す。いよいよ不条理になる。その店には、バズーカがあったんだ。
ここ迄来ても彼は警察に捕まっていなかった。異常な気配を感じているのは、その日が定年という老刑事だけで、他の刑事達は真夏の詰まらないいざこざとしか想わず、気付いた時にはもうどうしようもないところまで行っていた。もしもコトが早く収まれば、お互いに苛々してたから…で済んだのかも知れない。何故なら事件は、街のギャングがカツアゲをしようとした以外は欲という程のものではなく、単なる不機嫌の上塗りだったから。

「狼たちの午後」「フォーリング・ダウン」に共通しているのは、アクションではなく衝動の映画であること。誰かが超能力を持ってしまうこともなく、ラストシーンは予想を覆すこともない。推理ドラマじゃないんです。なのに、観客は考えます。何故こうなってしまうんだろう。共感と反撥とを行き来しながら、結末で気付かされるのは、これは誰かの物語じゃないということ。退屈している群集の物語だ。

ことほどさように、サイコは、実はそこいらじゅうに蔓延している。不景気や、不安が蔓延しているように。誰もがとち狂うんです。どちら側かはわからない。しかし、もうずっと昔から、人間は衝動に支配されないように慎重に折り合いをつけてきたと想われます。恐怖も、笑いも、いやもっと単純に運動も、血中アドレナリン濃度を増加させ、理性を興奮状態に圧し上げます。その興奮状態は、退屈の反作用だとしたら?不気味ですよね。まるで本能的にヒト種は人口をコントロールしているようにも取れる。ものの見事にオーラを消しているマイケル・ダグラスは、地味に、胸糞悪い奴等を否定して回る。

アル・パチーノという俳優は、いかにも何か問題を抱えてる人物が実は状況に振り回されているだけという物語に、めっちゃフィットします。どうしてだろうね。ぼくだけかも知れないけれど、応援したくなる線の細さが演技に滲んでる気がします。猫背にそんな気がするだけだけど。逆に、ダスティン・ホフマンという俳優は、普通の人。それなのにナチの陰謀に巻き込まれてしまったり、暴力を嫌って田舎に移り住んだ筈なのに凶暴性を露呈することになったり。応援というよりも、
「危ない、でも、どうか落ち着いて…」
と言いたくなってしまう。
俳優の持ち味については私見なので、あまり根拠は示せないですが、ここでぼくが言いたかったのは、何処にでもサイコが満ち満ちている、誰にでもサイコは潜んでいる、なんです。

善を押し付け過ぎると、悪になる。それが誰にでも起こり得るから、「フォーリング・ダウン」には、ホラーすれすれの薄気味の悪さが残ります。
女房に隠れて(絶対バレてると想うけど)煙草を吸う男、ニコラス・ケイジは、スナッフ・フィルムという闇市場に触れる。人を本当に殺してその映像を嗜好品にする商売人と購買客。彼は躊躇いながらも、そんな奴等を見逃すことは出来なかった。正義ぶらない優柔不断さが、彼をちゃんと日常に戻してくれる。


今ぼくらが立っているのは、日常だ。でも、どっちの日常だろう。集団的であれどんな理屈であれ、間違いなく、戦争が近付いている。ぼくらは、戦争に向かっていない?

自らの攻撃性を認め、政治家をやってるあいつの好戦的な方向を直視しないと、攻撃を留めるすべはないです。ぼくらは戦争をやる種だ。だから、とめよう。
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by momayucue | 2015-06-24 22:12 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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