もーしょんぴくちゃー

ファイトクラブと進撃の巨人と生きる実感について2015'

d0041508_1885319.jpg

d0041508_1885391.jpg

d0041508_1885324.jpg

いちはやく、「進撃の巨人」を観てきました。
今更ながら、「ファイトクラブ」を観ました。

「進撃の巨人」について。
賛否両論と言うか、国内では(国外もあり得るという前提で失礼します)どうしても非が乱暴で目立つのですが、映像の暗いトーンといい、汚れた生活感といい、無国籍でも多国籍でもない架空の世界で起こる不条理と、追い込まれ抵抗する弱い人間の行動がきっちりテーマとして機能していて、よい映画でした。若いんです。青春映画なんです。人肌を求める感覚もぼくには解る。石原さとみの「やりたいっ!」には笑いはしなかったけど、彼女のあの台詞への態度は凄く好感を持てた。
どうしても一部の俳優のやる気はあっても軽率な(ファンの方ごめんなさい)演技方法や、そこに責任を取っていない(確信犯だとは想うけど)監督の演出が納得行かず、それは最後迄続いてしまったのですが、俳優に対する腑に落ちない感想なんて英語圏だろうとスゥエーデン語圏だろうと同じだし、殊更邦画がどうとかも想いません実は。物凄い暴言を吐いてしまうと、漫画が原作だったりアニメが実写化されたりの映画は、殆ど間違いなく袋叩きの洗礼を受けるのは何故か、考えたんですよ。理由はふたつ。まず、漫画やアニメのファンは、原作と比較して語るにしろ別物と割り切るにしろ、所謂小説の映画化に対する反応よりも反応が幼いことが多い。もうひとつの理由。映画化される漫画やアニメは、偶像化され過ぎてオリジナルと結構乖離している。
このふたつの理由、言ってることが似てるけど平たく言うと、「ユーザー自体が幼稚」なことと、「作品も実は結構ふわふわとしたファンタジーなこと」、です。うーむ、暴言だ。
スパイダーマンやバットマンがそんなにコミックとして深みがある訳じゃない。では何故MARVEL作品には単純に喜ぶ日本のファンが国産の映像についてシニカルに振る舞うかと言うと、…色眼鏡か、本当に作品のレベルが低いか、どちらかでしょう。ぼくは、想像してみたんです。この映画を20年後に観たら…、うーん、イケてんじゃない?もひとつ想像してみたんです。この映画とウルヴァリングエムル-漢江の怪物を並べてフランス人が見たら…(この仮定はつまり、属性を薄く薄くしようという意図)、日本のアレ、予算をエキゾチシズムとチーム力で補ってて侍っぽくていいんじゃない?と言われんじゃないだろうか。
いやはや、ユーザーが良くないだけ、という言い分になっちまいましたが、当社比なのでスルーして下さって結構です。本日のお題は別な所なので。
d0041508_18133992.jpg


ファイトクラブを何故観ていなかったかというと、公開当時ぼくは映画館に行くことが年に1回くらいしかなかったし、DVDやらを買ったり借りたりするのも少なかったし、その中で、わざわざ「セブン」なんて後味の悪い作品を作る監督のなんて、やだなあと想ってしまったんです。苦手だったわけ。バンマスゆーこさんが、
「いや、ファイトクラブはいいよ!爽快感があるのよ」
と勧めてくれたので、恐る恐る観てみました。エドワード・ノートン。ブラッド・ピット。

Amazonの評なんかを観ると、
「この映画を観る前と後では、人生が変わってしまう」
と迄言っている人がいましたが、確かに、風景が変わって見える感覚になりましたね。
優雅な独身貴族。他人の交通事故を調査して自動車メーカーの瑕疵を査定する、ある意味非常に濃密に他者の人生に関わりながら、ある意味自分の何かを殺さないと進めようがない職業の主人公。不眠症に苛まれ、カウンセリングを受けたことで、凡その悩みを持つ人間達の自助グループに参加し、吐き出された他者の自己を見て束の間解放される「クセ」が出来た。碌な奴じゃないね。
或る日、飛行機で巡り逢った男。自宅マンションが火事で焼失した為に、彼は、その男タイラーに電話し、生活と、組織を共にすることになった。組織とは、「ファイト・クラブ」。ただ殴り合うだけのクラブ。特に技を磨くでも精神を鍛練するでもなく、ただ、生きる実感を得たい為に、殴り、殴られる。
自分の生命をくっきりと感じたいだけのそのクラブは、いつしか仲間を増やし、規律が生まれ、どんどんタフになっていく。しかし主人公はやがて、何かぎくしゃくとしたものに気付くんです。ファイトクラブは社会現象のようになり、意味のある風な悪ふざけで存在をアピールし騒ぎを起こす。そんなものだったか?自分は、このクラブの何なんだろう。クラブはいつの頃からか、生命を感じるどころか、末端は交換も保管も可能になり、中枢ですら自分の知らないものになり、そして、…。自分がクラブによって感じていた自分そのものの実存が揺らぎ出す。自助グループで知り合った男が命を落とし、クラブが彼のガールフレンドを拉致した時、彼は、分裂と妄想に気付き、そして更なる分裂と妄想の地平と、命がけのファイトを強いられる。

「自由」とは、何だろう。13歳の頃、この言葉が兎に角好きだった。自由になりたいと想ったし、自由に振る舞ったし、モラルを忘れない限り人間は皆自由であるべきだと信じてた。15歳の時、アメリカのとあるフォークソングに出逢い、その歌詞に驚愕する。「自由っていうのは、素敵なんだよ。何もないことさ」まじか、何でもあることだと想ってたのに、何も無いんだっけ?よく考えると、確かに最大の自由とは、何もないことでした。そこにあるものは、既に不自由な因子なんです。


あまり良く知らない進撃の巨人サーガですが、或る日巨人が出現し、人間を食い散らかした為に壁を作りそこから100年、…という舞台設定は共通してますよね多分。そこもぼくが勘違いなら情けないなあ。でも合ってる前提で行くと、100年目に壁を超える巨人が現れた時、
「人類は思い出した ヤツらに支配されていた恐怖を… 鳥籠の中に囚われていた屈辱を……」
なわけでしょう。支配の恐怖は兎も角、鳥籠の屈辱は、プライドの問題でしょう。心臓を捧げる敬礼とか、お前は家畜か?とかも、国家なのか種なのかわからんが、誇りが、闘いの動機になってるでしょう。ところが、男達のひっそりとした地下クラブだったファイトクラブでさえも、自由と解放を突き詰めると、不自由な規律にすり替わってる。100年目やけに筋肉質な巨人に壊されなかったら、壁の中でのびのびと畑を耕して暮らし、時折「壁の外」という檻を覗いて隙を突く、文化的で自由な暮らしもあったのに、オレは世界を見たいんだという青春期の妄想をいだいてしまう。マンガ的な舞台と難解で幾らでも解釈出来る舞台のどちらも、きっかけは、疑問、です。これが自分なのか?という疑問。


吉本隆明さんの小市民的なものを全肯定してまわる膨大な仕事の中でなら、壁の中であろうと外であろうと、こっち側の方がいいんだぜって想っていられるものならばいいんじゃないですかね?って言って貰えそうな気がします。人間は、競うし相手を負かそうとするし優越感の魔力から逃れられないし、しかし絶対の正義なんていうのっぺりとしたものはなくて、強いとか弱いとかも無効になる場面が多く、揺らいでる。
揺らいでるから、疑問も答えもいつも風に舞っている。
「進撃の巨人」の宣伝にあたり、脚本に参加した町山さんが、
「くさす奴はこれからどんどん出てくるだろうけど、どだい無理だからと闘わない奴は、ロッキーにもなれない、何もしない奴等だ」
と男気をアピールしています。争いが嫌いなぼくは、「闘わなければ、勝てない」というあのキャッチコピーが大嫌いなのですが、戦ったものだけが戦ったと言えるのは間違いないところ。戦ってないものは、既に負けているのかも知れないですよね。だからぼくは町山さんを応援したい。ただ、闘った先にあるものは、血でもある。


さてここで、ファイトクラブのディヴィッド・フィンチャー監督への、ぼくからの単独インタビューを掲載します(うそ)。
た「謎めいたラストですが、彼はタイラーに勝利したんでしょうか?それとも、タイラーを止めることが出来なかったのでしょうか?監督の中では、どちらですか?」
デ「恐らく観客の90%は君と同じ疑問を持つだろう。タイラーは劇中で、
『日常にあるものだけで、大概のものが作れる。石鹸もダイナマイトも』
と言っているが、それは本当だと想うかい?」
た「…どうでしょう。出来るものもあるのではないでしょうか」
デ「精製にはそれなりの工業設備も必要だろうし、ビルを倒す程のニトログリゼリンは軍隊規模でないと手に入らないだろう。つまり、どういうことだと想う?」
た「爆発は現実ではない、ということですね」
デ「映画という、スクリーン上での2時間強の出来事の中で、何処から何処までが真実と言う質問をしたくなる気持ちは、私にも判る。監督によっては、線引きをしてここから先が両方の解釈が出来るという意図的に不明確な物語にすることを好む人もいる。私はそうでもないつもりだ。意図的な曖昧さではなく、エドワードの演じた彼は眼の前のあれを見たのだ」
た「見たことが重要だ、と言うことでしょうか」
デ「そう。そこは揺るがない。彼がずっとタイラーと共にいたのと同じことだ」
た「文字通り、『共に』ですね」
デ「もしかすると、エドワードもブラッドも、皆、『共に』いたのかも知れないというサウダージを感じることがあるよ。私含め皆30代だったんだ。20代で大きな仕事を任されたものも大勢いた。ファイトクラブとは、殴り合う為のクラブではなくて、自分達の中のタイラーと対峙し、徹底的にシャドウ・ボクシングをしたあの映画のプロセス全てだった」


わかったようなわからんような。

生きることを実感しないといけない、というのは非常に危険な追い込みです。
「進撃の巨人」は、架空の時代の架空の社会で、不条理な怪物に滅ぼされた人類の再起というかなり無茶な設定でありながら、青春期のドラマ。「ファイトクラブ」ではある程度目的を達成した大人が自分を見失い、肉体と精神の実感を捜す話。
人間は、立ち止まらなければそれで充分なのかもね。疑問も、欲も、ぼくは好きです。寧ろ成長とか教訓とかの言葉より、よっぽど共感出来る。ただそれにしても、凡庸も特殊も受け入れる吉本隆明という人の思想こそ、ぼくには指標になっていて、実感を求める強迫観念は、少しだけでいい。多分大量に摂取すると、禁断症状が出る。この問題はまさに今のぼくの問題で、禁断症状に蝕まれているところなんです。




[PR]
Commented by kozo at 2015-08-08 13:16 x
進撃の巨人は観ていませんが、漫画・アニメ原作映画に対するファンの酷評の理由、完全同意です。

ファイトクラブ、何度も手に取りながら未だ観ていない作品の一つ。次の一人の休みに借りてこようかな・・・

今日、学んだこと。
・鳥籠と烏龍は似ている。
Commented by momayucue at 2015-08-09 16:44
こぞさま。ファイトクラブ、全然軽い映画じゃなくて、感動的とかでもなくて、
本当にボディに来る映画でした。
ウォーボーイズよ、痛みの中から甦れ!

進撃の巨人は、多分何度か観ると身体が慣れるし、良さもわかってくるのだと想います。問題は2回観るという選択は、WOWOWとかに降りて来てからだよねってところです。
マッドマックスは、5回くらい劇場で観てもいいと想う。そんなときの為にauスマートパスを宜しく!
by momayucue | 2015-08-07 18:08 | もーしょんぴくちゃー | Comments(2)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30