小理屈「いやカタいのなんの」

スプラッターである理由

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セッション論争も随分過去な感じになってしまった。

よくよく考えると、あれは格闘技のアドレナリンと、音楽の多幸感とが、パラレルな方向で交差しない議論だった。「セッション」って、要するに音楽映画ではなくて、ストリートファイトの映画だった。気付いたのはとても最近でしたが、私はそう今は想えます。
いみじくも町山さんが言っていた通り、セッションと言う映画は、音楽に纏わる、少年の、あまり望ましくない成長物語でした。アドレナリン分泌を刺激するという意味においては、恐らく大概の人に効果があったと想われる「セッション」は、かくして、嫌われるべき人物達に嫌われたのです。私とかね。

ここ暫くの間、映画に限らず(いえ寧ろ劇場映画ではない作品鑑賞で)、本なども含めて、攻撃衝動に纏わるものを多く観ていた気がします。それは暴力の危険さ、残酷さに麻痺する危険さ、危険さそのものの暴力性、等について、元々考える素地が自分にあったからです。たった3行のここ迄で、既にかなりなメタになってますが、もともと私という人間は、暴力を知ることで内なる暴力と折り合うことに興味があったので、この構造を意識するのはとても重要なことなんです。

スプラッターというジャンルがあるようです。それは恐らく映像作品、或いはビジュアル作品限定で、音楽でスプラッターとかは基本無くて、あるとしても私が想像出来る範囲では、音楽に付随する血飛沫要素のことです。オジー・オズボーンのライヴ・パフォーマンスなどは、かつては鶏の首を切って客席に血を浴びせるとかだったし、パンク全盛の時代は、自傷をステージでやるのも珍しくなかった。フィジカルに残酷な歌詞描写。血と臓物が飛び散り、黒赤く染まる浴槽。ただそれらも、音楽にかかる視覚イメージで、スプラッター音楽というものは無いように想えます。しかし音楽がスプラッターと呼ばれることはない。曲調にしろ一応別物になってますが、場合によっては呼んであげてもいいのかも。
えー、逸れましたが、スプラッターに話を戻してですね…。
オカルトの一部、サイコものの一部、パニックものの一部、スーパーヒーローものの一部に、胴体がぶっちぎれたり、首が転がったりするシーンがありますよね。それがあるラインを超えると、危険物扱いになり、子供は大人同伴でとか、18歳迄見ちゃダメだとか、生々し過ぎるから苦手な人は一生見ない方がとか、喜んで観てる人間はアブナイ奴だとか、言われてしまう。

音楽も含めての話に最後はしたいと想っていますが、まず目先の課題から。
残酷描写は、或いはエロ描写は、大人同伴なら観てもいいって理屈は、誰がどんな風に始めたんだろう。これはNGだと即座に判断してTVを消したり映画館を後にしたり、大人の責任でするべし、というのも現実的じゃない。となると出来ることは、同伴することで刺激的なコンテンツの傾向を蓄積し、予防線を張るくらいです。だとすると、PG12などのガイドラインは、寧ろ大人の為の判断材料で、個別にコンテンツに当て嵌めることでもないと言えそうだ。
次に、禁止のコンテンツ。R18、アダルト或いは暴力描写。これは、子供なら影響を受けるのでそもそも避けることがマスト。大人なら大丈夫、という扱い。さて、果たしてそうだろうか。大人の方が複雑な意味を理解してしまう為に影響を被ることはないだろうか。それからもうひとつ重要なことが。子供が見てはいけないものは、暴力描写や残酷描写や性描写、だろうか?いやそれよりも暴力を「これは誰かを傷つけているのだ」と説明していないかどうかが重要なんじゃないだろうか。軽度の暴力であっても、これはやってはいけないのだというストーリーが込められているのならば、それは真っ当な作品の筈だ。描写が残酷でなくても、行為が残酷でそれを肯定的に捉えた作品なら、却って始末が悪い筈だ。
それに制度としてどう取り組むか。
一寸分別くさくなってきたので、何度かこのテキストに書こうとしたけど、やめます。

気付くと私はかなり多感な年頃から、その手のものを結構観てたようです。あまり意識してなかったので、本物のスナッフフィルムに比べたらこんなのはちゃちなフィクションか真っ当なアートのどちらかで、商業的なものな筈だと想い込みながら、ATTA達と一緒に、その後某連続殺人犯宅から押収されたとかのビデオを観て、
「なんだこれ?呻いてばっかりだぜ…」
なんて言って、そんなものに簡単に影響される程単純なオツムでもないという立場を維持してました。事実、たいした影響もトラウマも残らなかった。
例えば、「ギニーピッグ」。漫画家日野日出志さんが監督を務めたビデオを観ています。これが劇場公開されたのかどうかは知らないですが、シリーズの中の、「マンホールの中の人魚」は、食えない画家が下水で病に侵された人魚に出逢い、助けようとする物語。自宅の浴室に人魚を連れて帰った画家が助けようと看病するのだけれど、病は悪化し、七色の血と膿を流しながら死ぬ。最後に彼が取り出したものは、そして真実は…。
逡巡の欠落したサイコパスは、ばっさばっさとヒトの生身を切り裂きます。スプラッター描写のファンは、特に男性がという訳ではないらしく、吉本ばななさんなどには私はかなり沢山のコンテンツを教わりました。暴力のリアルさ、痛さ加減は兎も角、拷問やらの静的な残虐シーンには、女性の方が耐性があるのかも知れないし、その点では、殴り合う痛みや銃撃戦よりも、オカルト的非情なスプラッターの方が幻想的だということなのでしょうか。だいたい「幻想的」を求めているのかどうかも解らないけれど。
「悪魔のいけにえ」
「ランボー 最後の戦場」
キワモノっぽくて軽い、「オールナイトロング」

そしてあの、園子温監督の、洒落にならない「冷たい熱帯魚」。どれもこれも、うっかり観てしまったら暫く嫌な夢見そうな位に残虐な代物です。しかし、それが変質者を産むのかどうかは、そう易々とは解明されないでしょう。例えばアメリカ等はある程度PGやR指定の制度は定着している国です。しかし、インターネットの登場以前から、かの国は世界で最も病んでいた。インテリの倒錯としてサイコが生まれるよりは寧ろ、カネと権力が残虐行為に向かわせること、それから、戦争に代表される「善悪が棚上げされる殺人」と、根拠も生産性もない「人種による合法的差別」が、国民を追い込んでいました。ストックホルム症候群のような集団心理と行為の加速によって、どんな矛盾も、いともたやすく突破されてしまう以上、防止する為には、規制よりも理解が重要です。テロの無い世界を実現するのなら、テロを撲滅するのではなく、テロの起こる根源をちゃんと知る。その正反対が、50年代西海岸のアカ狩りであり、ナチズムであり、アメリカの幾つかの政策であり、ゼロ戦を代名詞とする自爆です。思考をやめ、ただ従うことで、矛盾に向き合わない。

パラドックスの再構築によって、
人間はサイコパスになる。

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残虐シーンの規制もさることながら、私達は、「悪」を知らないと、悪になるんです。もっとも規制しないといけないのは、それがどんなに尤もらしく見えても本当はとんでもない所に人間を運んでしまうかも知れないものを、です。麻痺も危険かも知れないが、それよりも、です。個人や社会をサイコパスに変えるのは、防衛だとか成長だとか権利だとかを騙った偽の幸福です。いや、偽じゃないかも知れない。だから、警戒し、逃げて、引き返して、確かめる。


唯一の恐怖は、夢野久作の「ドグラ・マグラ」でした。あの小説は、何もないところにさえ何かの萌芽をさせてしまう凄みを感じました。


坂本美雨さんが子供の頃、お母さんに、NINE INCH NAILSのCDを全部捨てられたことがあるそうです。そんな必要があったのかどうかは、親が判断して、うまくいったり間違ったり、ある程度それで仕方がない。NINは兎も角、私にもこれは聴かせたくないってものもありますが、どちらかというと個人の趣味に近いです。○●×はダサいから聴くなとか。そこはわたくし乱暴なんですみません。
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by momayucue | 2015-12-13 21:37 | 小理屈「いやカタいのなんの」 | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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