小理屈「いやカタいのなんの」

音楽の特権意識について、全ての特権意識について

d0041508_273419.jpg

d0041508_273497.jpg

d0041508_273437.jpg

d0041508_273468.png

以前、アントニオ・カルロス・ジョビンの発言を引用しつつ、JAZZの傲慢さをテキストにしたことがあります。2006年位…もう10年近く前になるのか。20世紀のJAZZという音楽が基本的に黒人に牽引されてきたものだというのは歴史的事実として、そしてそこにはアートだけで割り切れない搾取と差別が濃厚に関与しているとして、それでも、ブラジル人として生きてきて、一時は祖国を追われたこともあるジョビンは、黒人達を差別していたとは到底想えません。無論彼の発言とは、アメリカから来たジャズメン…、スタン・ゲッツやその周辺人物に対しての感情の、想わず吐露されてしまったものです。JAZZ界の大物達に、お前は一流のジャズメンだと言われても、それは、褒め言葉なのだろうか、と想ったのでしょう。

渡辺貞夫さんは80年代、フュージョンで記録的な売り上げを叩き出し、武道館で単独コンサートを行い、タイアップで内外の演奏家を自在にオーガナイズし、日本の音楽を文字通りリードしていました。世界をまたにかけた、察するに必ずしも優遇ばかりでない、「東洋人が…」という視線を浴びたりもしながらの演奏を続けていたその頃に、
「今ジャズをやってる人達は、ビーバップに特権意識があるんじゃないかな。『チャーリー・パーカーが頂点だ』という観念に染まっている」
と言ってます。あの温厚な笑顔の裏には、アフリカにも南米にも音楽を求めて行動した中で、いつの間にか形成されたアメリカ東西海岸の特権的ジャズ観に鼻白んでいたのかも知れません。推測なので判らないですけどね。

「推測なので」というのは、JAZZはある意味解り易い特権意識が重層されているからです。
白人に媚びたダンス音楽という時代。ビーバップ。モード。アートとして難解さに走っていた時代。「黒さ」を歓迎した時代。日本人の演奏家など(悪い意味で)歯牙にかけず、ビル・エヴァンスでさえジャズじゃないとのたまい、自分の耳は世界レベルと盲信している日本人も沢山いる。そう、ジャズは、オレがジャズだ、という人種だらけの世界なんです。

JAZZのサロン的ムードの印象は私は明確に持っているのですが、ロックだって、クラシックだって、似たようなものだ。音楽なんて、自分を天才と信じてスリーコードでフォークを歌えるような魂胆がないと出来ないとも言えます。そしてそれを、リスナーが「私にはわかる」と言う権利は当然あります。しかし他人様に向かって、お前には解らない、と言うのは…いったい何故だろう。

お前はわかってない。これは本当に、日常にありふれているマインドです。諭す意味で、憐れむ意味で、失望して、期待して、理解を深めようという意味で、啓蒙的に、…。そして、音楽に関して言えば、私はそんな喧々諤々も、娯楽の宿命でも楽しみの形でもあり、だと想っています。勝手言って、カチンと来て言い返して、それでいいと。音楽なんてそんなものだ。しかし、政治や、利害絡みとなると、それで済む筈がない。最悪戦争になったこともあるんだし。これからもきっとある。戦争や利害について私の想う処は、一寸この場ではやめておきます。聞きたいという方もいらっしゃらないと想いますが、準備だけはしておきます。ただ、私が「アリ」と言ってしまっているJAZZや音楽や歌舞音曲の喧々諤々には、トレーニングの機会を感じているんですね。
日本人にソウル・ミュージックは出来ない?そうだろうか。そう言い切った人の眼の前で、もしもウィルソン・ピケットが、JBが、プリンスが、久保田利伸を最高のブラザーだと認めたら、その「言い切ったクン」のアイデンティティーが揺らぐ。そして、
「いや、オレこそがソウルだ」
と立ち直った時には、きっと、お前のソウルを否定しない、もセットになる。

糸井重里さんが随分若い頃に、
「自分は他人」
と言ってました。いかにもコピーの達人。そしてその後に続いたのは、
「あいつは俺だ、と想うことの方が多い」
です。
自分ではない誰かの行動の中に、自分のいかにもな部分を見つける。反面、自分でいかにも自分らしいことを捜そうとすると、次第に自分が乖離していく。
「人のふり見て我がふり直せ」は、自分の醜態を他人が見ているということにもなる。確信を持って行っている自分の行動が、他人にはどう見えるか。自分が何に怒っているのか他人には解らないけれど、他人を見ている時、自分もそう見られているのだ、全てが、お互いが、誤解なのだと気付く為になら、音楽の趣味でケンカなんてちょろいもんですよ。

うっかり肝心なことを忘れて結論付けてしまうところだった。「セッション」という映画の是非について、町山さんと菊地成孔さんの論争というのがありました。
野次馬の私はすっかりくつろいでて、
「まあぼくはあれがいい映画というふうに受け入れることは出来ないな…」
とか想っていたついでに、ふと想いを巡らせたのです。
クリント・イーストウッドの超名作「グラン・トリノ」。意固地な老人が、自分なりの民主性とも言えない博愛で、物凄くゆっくりと新しい隣人のモン族を受け入れていく。この映画、めっちゃはまって、一時期DVDを持ち歩いてた位に好きだったんです。しかし、重要なイコンになっていた、「モン族」は、果たしてあの映画を観てどう感じるだろうか。
「自分達の民族とはかけ離れているが、アメリカという国の自浄的映画作品としては受け入れる」
と想えるだろうか。考証以前に感動出来ない、どころか侮辱、いやそれどころか、映画という装置の機能として間違っているものかも知れない。その意味は数行後に。
セッション論争の内訳。ジャズドラムの鬼教師と、生徒の、しごきと同質化による和解(というよりも一蓮托生)の物語。それを、町山さんは「好きだ」と絶賛し、菊地さんは「嫌いだ」と扱下ろした。その論争は、当人達の解決が過ぎてもフォロワーの中でもやもやっと影響していたのが、セッション論争。
私は、音楽での和解とは受け止められませんでした。同じ穴の貉になった、という黒い結論。しかし映画はそれを黒く描くどころか、何か特権意識の共有の美談のように終わらせてると想う。ラストシーンを観るだけで、充分に不快でした。それがジャズ言語として有効か云々ではないつもりですが、
「これは映画として間違ったストーリーではないか」
と、今でも想います。それをJAZZのスノビスムと取られるであろう悔しさも感じて、尚更イヤだ。

しかしね、AmazonでもSNSでも何でもいい。実在するんだよね。露骨な特権意識の人間が。気付くと音楽とかけ離れた権力闘争になっている。だからって、音楽で遊ぶあらゆる行為を、ダンスも批評も勘違いも喧嘩も、私は、「ナシ」とは言いたくないし、恥ずかしながら、「ナシ」だって言う人には、お前こそナシだとむきになるわけ。





[PR]
by momayucue | 2016-01-16 02:07 | 小理屈「いやカタいのなんの」 | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31