もーしょんぴくちゃー

2016年 火星のオデッセイ なんとなんと、リドリー・スコット監督

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「ペギー・スーの結婚」の時にも書きましたが、言語と文化が違うと、その文化を込みで翻訳しないと伝わらない。まさかまさかの、主演女優がキャサリン・ターナー女子高生に「無理がある」という意見があったりして、そこさえ伝わらない時は伝わらないんだな、と。で、同じ憂き目に遭っているのが、例えば「バードマン」がコメディだというのが、どうも日本では伝わらない。まあ確かに一寸インテリ臭いこじゃれた笑いだけど、基本的におやじの悲哀なのデスよあれは。そしてもうひとつ、ギャグではないけれどジョーク満載のハード&ライト・SFがあります。邦題は「オデッセイ」。いったいこれどうなってるんだろうな。

あらすじを。
火星探査のミッション。科学者が数年かけて、火星の地表に降り立っている。様々な調査を行っている或る時、基地付近に巨大な嵐が来ることを察知する。キャンプは地面に張り付いているから大丈夫。しかし、着陸しているロケットは、嵐に倒されたら二度と起き上がらせることが出来ない。発射出来ないのだ。それはすなわち地球に自力で戻れないことを意味する…えらいこっちゃ、急いで乗って、すぐに母船に飛ばなくては!
しかし、ロケットに乗れなかった乗組員がいた。植物学者のワトニーが途中で嵐に飛ばされ、はぐれた。他の乗組員は、苦渋の選択というか、ワトニーの生存は絶望的だという判断で、火星を立ってしまう。
ところが、彼は生きていた。宇宙服の損傷も出血の凝固のおかげで致命傷にならず、キャンプに戻り、記録用カメラにぼやき始める。水を作り、肥料を得て、作物を育て、電力を確保し、そして、当面の問題をクリアしたらいよいよ、地球との交信を実現する為に、トンチならぬ実利的な思考と行動を次々にぶちかます。

だいたいがリドリー・スコットという監督が、娯楽ではありながら名作大作を作るタイプ。なので、こんなにB級感ネタが満載の映画というのが、解釈しづらいってことなのかな。兎に角この映画、感性がフレッシュ。普通さ、大物になっちゃうと、インターステラーのすぐ後に似た設定でマット・ディモンを使わないでしょうし、その他のキャストだって近年のSF映画のパロディーみたいになってるし、こんな未来の設定なのにわざわざディスコばっかりにしないだろうし、もうこのアンチ深刻さには恐れ入る。
「通信さえ途絶えた宇宙空間での孤独」
なんてものを問題にしたぼくが馬鹿みたいじゃないですか。全くもう。しかし、要するに孤独というものがずっと文学的なテーマになっていたのに対し、宇宙にしろ南極にしろ、それは前提条件からして「外れて」いないとムリなんですね。記録用カメラに向かって軽口を飛ばし、絶望を「トホホ…」にし、通信が復活しても相手を笑わせ、自分をアゲていく。孤独だろうが何だろうが、出来ることをやるだけだ。数万キロ離れた時もチームワークを保つものは、ユーモアだ。

さて、日本ではこの映画について、まずCMが、本編にありもしない物語を敢えて付け加えてる。ざっと纏めると、「決して諦めなかった男の、感動の物語」的な。いや、そりゃまあそうだけど、このCMは、映画のテイストを何も伝えていない。あまりにもかけ離れていて、これわざとだよね…?と言いたくなる。しかし、このキツめのジョークは、どうやら日本中に蔓延していて、少なくない人が、この「火星で生き残ってましたよ~ん、サプライズ!」なノリノリムービーを、インターステラーと比較するようにしか捉えられないでいる。いあや違うんだけど…、インターステラーに乗っかる為の映画で、比較して重いとか軽いとかじゃなくて、始めっから軽いんだって!
動員の為に、わざとそうした戦略にしたのかも知れないです。だってさ、少しこじゃれたサバイバルなコミックだったら、TED並のしょうもない映画程度の動員になっちゃう。それなりに予算もかかってて、シナリオも、キャストも、徹底的に練られているリドリー・スコット作品を、ふいにしてしまいかねない。全くリドリーともあろう人が、なんちゅうポップな週末映画を撮ってくれたのよ、とか想いながら。
なので、この映画に少しがっかりした皆さまに、声を大にして言いたい。何とかなる為に、何とかする。何ともならないと想っていても、やれることをやって、迷惑かけても生きましょうよ!喩えそれが都会の孤独でも。喩えそれが火星のギネス登録者でも。

一旦話を自分のレベルに繰り下げると、結局、孤独に耐えられるだろうか、或いは孤独を「強いる」ことに耐えられるだろうか、更に細かく表現すると、
「孤独を無視するという原初的な不実」
に、果たしてぼくが耐えられるだろうか、という問題に行き当たるんですね。つまり、独りになるのは、ぼくは割に鍛えられてる。若い頃から、言葉の通じない環境でも何とか人と関わり、物事をまわしてきた。多分無人島でも、物資と楽器くらいがある島ならば、何年でも何とかなる。しかし、誰もに同じことを求めてしまうのは、なかなか残酷じゃないですか。しかし、この作品ではリドリー・スコット監督は(ひいては原作も)、地球で待っている家族にも、娘との約束にも、人類の命運にも、頼らなかった。ただただ当たり前のこととして「仲間を助ける」ことを皆が理解した。

そう、人生は、終わらないのだ。自分の人生であれば。他人の人生を慮るのは2016年と言うもはや21世紀を未来とイメージしない時代においても当然だけれど、それさえも、孤独によって終わらないのだ。生きる価値とか目的とか、無くたって、迷惑かけたって、生きていくのだ。食って、考えて、ふざけて、絶望して、それを何とか「トホホ…」に変えながら笑う。生きることは、笑える時間があるってことだ。すんばらしいことじゃんかよ。

それでも、ぼくにはひとつ、"The Martian"なる映画の、映画としての立ち方で、非常に大きな不満がある。
中国人が出てきます。NASA側にも、所謂外国としても。で、この外国として出てくる、
「一方その頃、かの中華人民共和国では…」
として登場する中国ネイティブ人達が、いかにも、ハリウッド映画が中国人を描きましたというルックスになってるんです。ステロタイプで、カッコ悪いんですよ!んなわけないだろ。最近は日本人が昔程カッコ悪く登場しなくなってるし、生きた人間の顔で出演してるというのに、何故こんな映画で、あんなに中国人がカッコ良くないんだ?登場の仕方や役割はカッコいいのに、見た眼が、あんまりだ。ぼくが中国人だったらがっかりすると想うし、中国人達もこの映画で少なからずがっかりしたんじゃない?

ああそうだ、船長の音楽嗜好が、ブライアン・イーノとか武満徹じゃなくて良かったねえ。まあもう少し新しくてもいいんだけどさ。あのキャンプに残ってた音楽がコルトレーンとかだけだったら、ゾッとする。
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by momayucue | 2016-04-24 00:41 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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