さてこんばんは、たにぴ@もまゆきゅです。
私の音楽趣味について、凡そジャンルではないけれど、それ程広大な領域を聴きまくってるわけでもなさげ、なのは、当blogのレギュラーウォッチャー様には、すっかり見抜かれていることと存じます。
もまゆきゅと言えば、アコギでゆーこさんのヴォーカルを支えるスタイルのライブが基本です。、アップライトベースでATTAさんがいてくれたり、トランペットでまつきりさんや、打楽器でひろせさん、マエヤマ=タカミさんと演奏なんてのもあったね。とは言え、基本的に「アコギ+何か」。しかし、時折この「アコギ+何か」を大きく逸脱する図式があります。コンピュータの登場です。
私個人の演奏活動史としては、想えばこれ迄随分とハードウェアを使ってきました。KORGのアナログシンセサイザーや、AKAIやCASIOのサンプラー、オープンリールのテープ、ROLANDのシーケンサー。定番DX-7、その他色々。それにしても、セットとして王道なものは全然無い!見事に無かったです。
最終的にかどうか判りませんが、私が今使ってるものは、添付のモバイル、YAMAHA QY70です。単3の乾電池6本で5時間近くの稼動に耐える、シーケンサー&音源モジュール。大きさは、VHSテープ程度。重さは、どうだろ、2キロくらいかな。ライヴだけでなく、作曲やMIDI打ち込みの為にも、年柄年中持ち歩いています。
これは発売された時には、かなりセンセーショナルなものだった様です。何しろ持ち歩ける。電池で稼動する。バルクデータとMIDIファイルがPCにバックアップ出来る。私が石橋楽器で中古(店頭くずれ)で2万円で入手した頃には、後継機種も出て、更に時代はソフトシンセとDAWへとシフトしつつありました。それでも、たにふじはとても喜んで使いはじめました。これまでよっこらしょと組み立てて、スコアを準備して、人手に委ねて、キャッチボールを延々繰り返していたことが、取り敢えず、電車の中でカチカチやってるうちに形になるんです。
今年リリースしたアルバムでも、大活躍して貰ったQY70。ライヴでもオケとして幾度となく登場しています。音でも機能でも問題は勿論ありますが、モバイルだけあってタフですし、とても気に入っています。
さて、このQYクン、もまゆきゅのメンバーにはすこぶる評判が悪い。音が、良くない。どうもしょぼい、といつも言われます。
「たにぴーは音に対して非常に繊細なのに、可否については大雑把よね」
「何でこの音で許せるの?」
えー、YAMAHA関係の方、ごめんなさい。平身低頭。でもまあ、確かに音がいいと言う訳には行かないでしょう。どう考えても、これで素晴らしい音色だけが泉の様に奏でられたら、割りに合わないもん。それでも私は、これで行ける所迄行ってるし、これからも使い続けるでしょう。
現在闘病中の日本屈指のレコーディングエンジニア、吉野金次さん。彼のもう25年も前のインタビューに、こんな言葉がありました。
「あのミュージシャンのあのレコード、あの部分の艶がどうしても欲しいとする。もしそれがレキシコンのプレートエコーだって判ってるなら、借りてでもその音を作るべきだ」
「ぼくがデビュー当時のスタジオは、ドラムにはダイナミックマイクしか使っちゃダメだった。でもぼくはスネアだのにはコンデンサーじゃないと許せなかった。ミュージシャンと夜中迄残って、誰も人目の無い時間にやったよ」
それは、QY70で妥協してしまってる私には、耳が痛い、心も痛い話です。
その一方で、本日のタイトル、東海林太郎さん。昭和初期の日本のレコードアーティスト。当時の国状とテクノロジーと、数え切れない認識違い。レコーディング環境は、今日とは全く比較出来ない、手の施しようも無いレベルでした。では、その音楽は、色褪せるか。勿論、色褪せてしまいますが、それでもその中でベストを尽くすしかない。無いものをねだっているうちに、もっと大切なものを取り逃してしまうかも知れない。
「いや、当時はアナログの味わいが素晴らしかった」
なぁんて屁理屈をこねる人がいたりして。さもありなん、なのですが、例えば、フェアライト、CASIOのCZ-1、サンプリングレートが今日とは比較出来ず、時代と共に消えていってしまった銘記、或いはおもちゃ。しかし、それらはローファイのブームを受けて、その音質の悪さがいい、と語られる様になりました。そもそもローファイが時代に切り捨てられた遺物ですし。ずっとアナログを支持してきた人達も中にはいるでしょう。しかし、この点について私は、「暖かい、冷たい」に代表される音が「良い悪い」とかではなく、「違う」から、どちらをその都度フレキシブルに感じていけるかだ、と、今ならば自信を持って言えます。
Pro Toolsという、現在スタンダードになりつつあるレコーディングシステムがあります。それがベストか?
多分、全然そうじゃない。それでも、音楽が鮮度を失い死んでしまう前に、そこにあるものでベストを尽くすべきだと想うのです。
いつか私も、QYなんて忘れてしまうかも知れない。しかし、今私はこいつを使って、音楽を作っています。今ここにある何かを、迸る何かを、さっさと作らないとね。地団駄を踏んでいる様を、捉えるアートとして、音楽は、絵画よりも、映画よりも、幾分有利だから。もしかすると写真を撮るのも、音楽より速いかも。そう、見た目の伝わる速さも凄い。光は秒速地球7周半。音は330m。大差がある。よし、私も東海林太郎さんの様に、直立不動の視覚インパクトで行こう。なんちて。
私は古いタイプの人間なのかもしれないけど、音楽はメロディ・コード・リズムに尽きる…と思っているほうです。音色はいいに越したことはないけど、それは音楽の根幹じゃない…と考えてます。(無論、これは作曲においてであって、楽器演奏家がこの発想をしているようではイケナイとは思いますが。)
だから、たにぴさんが音色は少し棚上げして、作曲に腐心するのは分かる気がします。古いワタシとしては、たにぴさんが作る“骨格の優れた音楽”を心待ちにしています。(そして、それが矢野さんに演奏される日も。)
ご支持いただき、うれしいです。
とは言っても、みんな意見はそんなに変わらないのに、
やっぱりQYの音を聴くと、一寸はてなが浮き出てしまうみたいです。
ぼくの場合、
「だって昔はこんなこと夢ユメだったんだよぉ」
という、ちょびっと後ろ向きなとこもあります。
貧乏性も大きいな。大きな買い物出来ないし。
あーあ、今日はHMVトリプルポイントなんだよな。しょぼん。