たにふじゆういち、谷藤祐一、Everything OK's、そして、もまゆきゅ。
いったい今迄ぼくは、何回コンサートをしてきただろう。
私たにふじ、コンサートというもののありようについて、何度か自分の考えを整理する目的でテキスト化したことがあります。
非常に影響を受けたコンサート。実際に経験したものも、ライヴ盤で感じたものも、映像作品、インタビューも勿論ありますが、アーカイブがあったかな、と捜してみて、…なんとテキストも見つからない。あれれ?引越しのどさくさ?
とは言え、基本3つなんすが(^^;
・Nana Vasconcelos & Don Cherry
まずは、ナナ・バスコンセロスとドン・チェリーが、2人だけで行なったコンサート。87年、N.Y.の某教会。日時ははっきりしないんだけど(捜せば多分ぼくが録ったカセットが出てくる)、86年冬だった。
天井の高い、映画みたいに荘厳な教会。
中央で全員体育座りをして待っている。と、入り口の方から、ナナとドンの2人が、ビリンバウとカバサを鳴らしながら、ゆっくりと、ゆっくりと入場。マイクは一応立っていたけど、殆どマイクの前で演奏するでもなく、2人は打楽器をくゆらす様に鳴らし(そんな表現しか浮かばないんです)、ボディを叩き、ジャンプしながら観客と一緒に"WO!"と唸る。
ドン・チェリーがDX-7を弾くと、みんな自然に歌い出す。
「キミタチ、シンセサイザーヨリイイネ」
とドン。微笑む。彼の演奏するポケット・トランペットに併せて、ナナがユニゾンで歌う。アンコール、最後は観客を2つのグループに分け、それぞれに別なテーマのメロディを。
「えーーーどんばぁでぃえーーーどんばぁでぃえーだばどん、えだばどん」
「ななななぁーになぁーー えーおーえーーー」
即興で全てが進行し、全員がナナの人望を前提に積極参加し、ドン・チェリーが祝祭にメロディを添える。ピースとはこのこと。
・HOME OF THE BRAVE/Laurie Anderson
ローリー・アンダーソンは、"Mister Heartbreak"というアルバムが、あまりの素晴らしさにあっけに取られていたんですね、まず。シンプル、ハイテク、しかし森林的。
ところが87年、またしてもN.Y.でこのライヴ映画を観て、もうぶっ飛んだんです。
彼女はダンサーでもないのに、少年の様に、夢の遊民社の様に、両腕をバンと広げ、キメて、踊る。
で、突然お坊さんが出てきて、侘び寂びを英語で説明。バロウズが出てきて、ローリーと何故かダンス。奇妙なバイオリン。鍵盤内蔵ネクタイ。David Van Tieghem、インダストリアルでひたすらカッコいい打楽器奏者。
2本立てで、トーキングヘッズの"Stop Making Sense"と併せて観たんです。一般にはこちらの方が評価は高い。でも、ぼくには断然ローリーだった。痺れちゃった。
・High Strung Tall Tales/Adrian Legg
エイドリアン・レッグは、ものの考え方がいかしてる。ギター奏者としても相当なものらしいけど、何しろこの、半分ライヴ、半分スタジオのアルバムのライナーに、
「お客にとって、凡そギタリストのコンサートくらい退屈なものはないだろう。何しろみんな、間違えたり椅子から落っこちたりを期待してるんだから」
だもの。ハプニングに勝るものなし。
彼は自分のコンサートの特異性について、
「ぼくのコンサートはね、こうなんだ。まず1曲演奏して、次に聴衆に語りかける。次に演奏して、また語りかける」
そうです。なぁんてこたあない、アマチュアも、孤高のフォーク・シンガーも、ギャロッピングの達人も、同じだったんです。しかしそのMCがね、
「レコード会社が作った契約書には『お前が損をする』『お前が損をする』『お前が損をする』と羅列されてて、会計士に相談したら、『こことここで損をするところでした。はい2千ドル』と言われた」
なんて具合。めっちゃ面白い。そうやって人をくすぐって惹きつけてくんです。
ライ・クーダーとディビッド・リンドレーのデュオも、緩急や呼吸や自由さが音楽として素晴らしい。トム・ウェイツのスタンドアップ・コメディぶりは、プロのコメディアンからも目標にされる程。圧倒的で一糸乱れぬパフォーマンスの、マドンナ、プリンス、そしてあのマイケル・ジャクソン。
それらと比べて、上記3つの何が違う…メダリストではないという点です。いや勿論、3組とも、メダリストとして最大級の演奏力、知性、経験を有している。しかし、彼等はここで、驚異的な天才の責任を果たすのではなく、
「自分は、特別ではない」
との立ち位置を選んでいる様に見えます。ぼくが最も惹かれたのは、この思想。
「誰もが素敵なんだ。確かにメダリストは凄いもんだ。しかし、凄くないものも、欠点も、ふと見たら素敵なんだよ」
誰かを否定せず、個人の個を尊敬する。誰かのやり方を否定するものだけを、ちゃんと否定する。
カリスマ性スイッチをオンにしたまま、フルdBで期待に応え続ける人もいます。そこには、音楽の真実が、悪魔の様な真実が。
「きっちりプロデュースされていたとしても、信じ難いアドレナリンに振り回されて、開放される迄に数ヶ月かかるもんなんだよ」
と、キース・リチャーズ。もはや人生の大半を施錠(ロック)してしまった世代の彼は、ある意味僧侶の如き達観の境地から、それでも興奮を呼び起こすロックンロール・ショーについてこう語ります。
THE WHOのショーについて、ゆーこさんは興奮気味に、
「昨日私が見たのは、ライブと観客の姿はしていたけれど、巨大なエネルギーの固まりでした」
とメールをくれました。コンサートにおけるフロントマンのメダリストとは、そういうものです。しかし、もはや僧侶レベルのヤツ等をも捕らえて逃がさない、ロックの、或いは
音楽の真実には、末席を汚すもまゆきゅもやられっぱなしなんです。