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Headquarters/モンキー・ハウス

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何もかも大嫌いな、たにぴ@もまゆきゅです。

キライです。
憎しみも、独占も、攻撃も、正論も、キライです。
要するにぼくは、誰も憎しみ合って欲しくないですし、
独り占めしたくなる自分を抑えるほうですし、
攻撃されないと決して攻撃しないし、
正論なんて実際は誰の心も説得出来ないと想ってるし。

レコード芸術という言葉があります。
これは、レコーディング、記録という行為を使い倒して、
様々な形で再現可能な、それも何度も可能な、
そして時にはレコーディング以外では不可能な、アート全般です。
朗読かも。クラシックかも。テクノかも。民族音楽かも。
その頂点は様々なジャンルに様々にあるけれど、
殊ロック・ファンに語られる傑作のひとつに、
スティーリー・ダンの"Aja"があげられます。

音楽って例えば絵画とかと違って、始まったら終わるじゃないですか。
まあその、終わらない音楽というコンセプトのものも飛び道具としてあるけれども。
基本的に、演奏の時間に付き合うのが音楽体験です。
だから所有というのが実感しにくい。
それが、「レコードする」という技術が生まれて、それが音楽や映画になって、
複製されて、放送されたり上映されたり、する。
更には、売られて、買うと、自分のものになった気がする。
それは決して独り占めじゃないんだけど、ひとまず自分だけのものになる。
ぼくは、今でもCDをばんばん買います。新譜やらセコハンやら。
配信で納得は殆どしない。
それは、品質の話ではないんです。持ちたいんです。
だから今でも、ハイレゾに手を付けてはいない。
時間の問題…かも…。そうですな。はははは。
ただそのコレクター癖についても、独り占めはしたくない。

ドン・ブライトハウプトというカナダのインテリが、上記"Aja"が好きなあまり、
関係者に取材をしまくり、本にしました。「スティーリー・ダン Aja作曲術と作詞法」です。
これはそうとうに凄い本で、当事者ドナルド・フェイゲンにとっては
インタビューに誠実に応えてるうちに、
自分の中にもう一度エイジアがプリントされたんじゃないかってくらい。
ドンはこれで漸く、"Aja"の中に入れたのかも。参加して、同一化した。

ビートルズなどは、世界中にそのクロニクル全てのフェイズを追ったファンがいて、
スタジオのエアコンからとある写真で誰かが靴下を間違えたとか迄、
執拗にチェックされている。最早当事者の人生さえ超えてしまうんじゃないか。

何とか、自分の愛するものを独り占めしようとする。
或いは融合・一体化しようとする。
ぼくは坂本龍一のそうとうしつこいコレクターだけど、
所謂神扱いはしてないつもりです。しかし、
その神扱いにも明らかに特長があるわけですよ。
全盛期カルチャー・クラブのコンサートには客席がボーイ・ジョージだらけだったし、
AKBの総選挙サポーターになる時はLed Zeppelinの態度は取らない。
こじらせると日常生活にも影響が出て、
スティーリー・ダンの2ch板みたいな世界になると、
素直に褒めるなんてのは無くて、
他人の眼から見たドナルド・フェイゲンの嫌味を(ぼくはそうは想わない)体現しようとする。
で、「そんな奴はファンだけだ。オレを一緒にするな」、と
DFは泣きはらすわけ。

MONKEY HOUSEは、ドン・ブライトハウプトというその、カナダの物書きであり、超絶優秀なミュージシャンが、
そのスティーリー・ダン・イズムに肉迫したソロ・プロジェクトです。
肉迫した、というのは逆説というか過剰に敢えてして通り過ぎて、
その手の情報量を倍くらいにして、
濃くすることによって中毒的ポップになり、
自分達も、スティーリー・ダンもどちらもがくっきりする仕掛けです。
彼は、レコード芸術というもの全体を包括する試みのひとつとして、
"Aja"を解析し、再構築して書籍を起こしながら、
批評の帰結として音楽作品も作ってみせた。
これはぼくは、大瀧詠一さんの仕事に良く似た、
「極めて知的で且つ好き過ぎて且つ、…たかが音楽なんだから」
という、広大な思考実験だと想うんです。
ひとつひとつの精度もさることながら、実は繋がっていて、
しかもその手法自体が、レコーディング史のある特異点(Aja)から、
一気に全体を俯瞰する。歴史的到達点なのだ、と。

まあそんなことは本人一度も言ってないし書いてもないんだけど。
ぼくの想い込みかもだけど。
ただ、重要なことなんですが、アルバムは極めて批評的な立ち位置の作品でありながら、
音楽作品としてとても充実したものです。パロディではない。
ぼくはパロディも全然キライじゃないですけど、
物凄くスティーリー・ダンに似てる要素と、
これは完全にドン・ブライトハウプトのキャラクターだと感じる凄味も、ある。
融合して同化してく為には、能力と情熱が必要だった。

基本的に、音楽にしろ映画にしろ漫画にしろ、
オリジナリティーは、問われます。
100%のオリジナリティーは幻想だというフレーズは、
言い訳としても検証の場面でも使われる言葉ではあるけど、
許容される比率も、モノによって時代によって違うでしょう。
その土俵の中で、オリジナリティーを競う訳です。
しかし、幾つかの雛形、スタンダードの中には、
どんな形で模倣してもオマージュとして丸わかりのパクリが許される殿堂がある。
…ように想われます。
ない?
おれだけ??

喩えば、小津安二郎。スーツと会話とローアングルと、ストーリー。
花嫁の父が一寸切なげ…という噺。
小津監督の手法は、世界中で誰が戴いても、誰もめくじらを立てないんです。
スピルバーグを戴いたら、タルコフスキーを戴いたら、
みんな劣化コピー呼ばわりしちゃうのに。
音楽だと、スティーリー・ダン。ジャコ・パストリアス。バート・バカラック。
パクリをし易いとか言うのではなく、
「アレ風」という事実を糾弾されないんです。
だから、やけにソレ風が目立つでしょ。アレやソレ。
それでいて、似てるバトルが批判ってわけじゃ無い。

ぼく自身は、ある曲をパクッたという経験はたまたま無いんだけど、
作曲をする時には、ほぼ毎回、
誰のどんなテイスト、という条件を20から30くらいメモします。
その中には、音楽のことも必ず。
スティーリー・ダンをはじめとして、
特に好きって訳でもないのに、チャイコフスキーとかも、レギュラーです。
あの雰囲気を出したい。その為に、コードネームを書く時もあるし、
五線紙をざざっと引っ張って、数小節のフレーズをメモる時、
ある場面(映画とか色々)の時、
等々をかき混ぜて、
何故かひとつの曲になるんです。
自作の例では、
"Dying Message"なんて曲は、かなりわかり易くスティーリー・ダンっぽい。
具体的に楽曲のパクリではないんだけど、らしいカンジになってます。

独り占めして、他人には与えないなんて、ぼくはイヤなんだけど、
血肉化や、妄想的同化は…、やっぱこれもTPOだな。イヤなときもある。




by momayucue | 2015-06-04 19:03 | 未分類 | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
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