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もーしょんぴくちゃー

ゾンビ映画初心者のたにふじが、ゾンビ学をかじって(噛み付いて)みた

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今となってはすれっからしのたにふじですが、子供の頃はホラー映画が苦手でした。怖がりでしたねぇ。色々あって今は全く怖がらなくなっちゃったけど。

ゾンビって、その怖さと言うか胆は、人間が人間じゃないところに行ってしまうところ。自分を乗っ取られて、自分じゃないものに操られることと、周囲の人間が、自分の知らない人になってしまうところ、です。
だからぼくは、ゾンビボティスナッチャーは、その扱われ方もバリエーションのつき方も、よく似ていると想う。なにぶんその手のものに耐性が出来たのもオクテだったし、それなりに数をこなして観てきたのはごくごく最近なので、ぼく程度でゾンビ映画を語りめさるんじゃねえよって言われそうです。
でもやる。

ぼくが子供の頃、鈍感と言うかバカと言うか、初めて 1979年版ゾンビ を観た時の感想は、怖くてグロくて、とてもオピニオンなんて感じられないオモシロ映画だ、というものです。何も、わかってなかった。唯々ぼくにはホラーだっただけです。しかし、幾つか引っ掛かる差違がありました。
最期迄生き残るのが、黒人男性だったことです。珍しいな、と想いました。しかしそこに作家性を感じ取る迄自分は至ってなかった。生存者の彼が自殺しようとしたのも、想いとどまったのも、意図は、わからなかった。当時のぼくは、映画なんてそういうものだとしか考えられなかったんです。

ゾンビものも、作今はかなりカジュアルになりました。以前にも触れたゾンビが人間に恋をするなんてのも出てきたあたり、もうゾンビはオカルトの対象と言うよりも、のそのそとしか動けない可愛い仲間。しかし、ここ迄には彼等の長い苦節が…。

1968年に、ゾンビの基礎になる作品が生まれました。ジョージ・A・ロメロ監督によるNight of the living deadです。
ロメロ監督デビュー作品として、またゾンビの先駆けとして、非常に重要なこの映画は、すっかりカラー全盛に突入しているにも関わらず、モノクロで撮影されました。大予算の大作映画ではないので、バジェット上モノクロになったとしたら判りませんが、それは、この作品にとって明らかによい方向に作用しています。メイク技術がまだまだ作り物然とした当時、墓場から蘇った死人達は、白と黒とその中間の様々な色によって、リアルな不気味さを増しています。
詳しくないなりに、初心者なりに、ゾンビ映画史は、
・68年ロメロ作
・78年ロメロ&ダリオ・アルジェント共同
・80年代からのオカルト含有型
・2002年、28日後での全力疾走
・その次。本稿では「オチ」
とさせて下さい。このリストの不満は各位おありかとお察ししますが、ぼくの意図は、また後でね。

傑作と呼べるものは沢山あるのですが、ここはぼくの趣味というか、時代背景から考えたいんです。つまんなくてごめんね。

かの町山さんによると、ホラーの題材はヨーロッパが中心で、アメリカにはあまり無かったとのことです。ドラキュラ狼族の類いは、キリスト教の歴史、ひいては宗教の歴史と密接に関わっているのだそうです。絶対的な善の規律があり、その反逆が発生する。血を吸って永遠に生きたり、 人間の身体のパーツを繋いだ人造人間を生んだり、してたと。長いこと醸造されてきた怪奇キャラがあったと。そこへ、アメリカ=ハリウッドにも何かオリジナルが無いかと模索されたタイミングで、ロメロ版ゾンビが登場しました。
アメリカは、(今は些か怪しいけれど一応は)民主国家であり、資本主義国家です。自由を尊重し、お互いを認め合い、個性を受け入れる。だから、コミュニズム=共産主義を異様に恐れた。独裁者が全てをコントロールし、基本的に被支配者は与えられた範囲の裁量でのみ自由。管理社会。それはアメリカ的視点からは、集団行動で没個性的でボトムアップによる改善は困難に映ったんです。理想からは、程遠かった。
してみると、ゾンビは…。
彼等の特徴は、無気力にのそのそと動き回り、緩慢ながら感染し、不可逆なところ。そして何よりも不気味なことに、元の人間の容姿を残していながら、全く見知らぬ何物かになってしまうこと。特にモノクロの映画では、気味の悪さを観客に感じさせながらも、遠目には正常な人間と区別がつきにくい。モノクロ期のロメロゾンビは、とある集落で散々人間を追い詰めていながら、最期迄生き残った黒人青年を、なんと援軍の軍隊がゾンビと峻別出来ずに、悲劇的な結末をむかえます。

その次に、エクソシストの大ヒットを受け、キワモノでもカネになると踏んだハリウッドは、またもやホラーテイストを探し始める。78年、ロメロに再びゾンビのチャンスが訪れました。あの頃、キャリーとかボディ・スナッチャー とかあったなあ。子供のたにふじには受難の時期でした。
閑話休題。78年のロメロは、メインの舞台をショッピングセンターにしました。ゾンビ現象は冒頭から始まっていて、TV局では対策の討論会が行われている。やがてソコも危なくなり、生存者は、ショッピングモールに立て籠るんですね。食料はあるし、闘う為の銃もある。時計やらのある意味贅沢品も取り放題。生存者達は落ち着きを取り戻すと、飽食しだす。一方ゾンビ化した元人間の群れは、生きてた頃の習慣がわずかに残っているのか、モールをうろうろとうすのろに動き回ってる。
あらら。
68年版ではコミュニズムの感染だった。のが、78年は、資本主義の敗北が、スクリーン一杯に映し出されるでないですか。しかも、飽食だからカラー。しかもしかもゾンビは青白くハッキリと人間と異なってるけど、立て籠ってる生存者は物欲にまみれていて、独占している分だけ支配者の階級にいる。しかもしかもしかもそれすらやがて、本能に突き動かされるように統率が壊れ、ゾンビの侵入を許していまい、崩壊していく。しぃかぁもぉー、どうやら外の世界は、無事に機能しているとは想えない…。

そのあまりの重厚さからか、ゾンビはブームにもなりました。なんかさ、バタリアンとかコミカルなものも出てきて、ここら辺も資本主義が全てを呑み込む図式を継承してますよね。なんてこった。

ゾンビが、何処から発生したのか、大概のゾンビものでは説明してません。触れててもあまりテーマとは関係なさそうに、さらっとだけ。この特徴も、少しずつ変わっていくようです。

68年、78年迄、人々はニュースや情報を何で得ていたでしょう。新聞の洗練されたテキスト。それから、テレビ。アメリカの社会不安は、冷戦と共産主義、人種差別、環境汚染と移り変わっていく。環境汚染なんて、疾病と感染にそのまま応用されて、80年代の近代ゾンビ型ホラーに幾度も使われてた。しかも、隠蔽に国家も加担してたりして。ゾンビではないけれどぼくの印象深かったのは、「インパルス 暴走する脳」と言うSFでした。小粒感もいいし、主人公の悲しい暴走も、切ない。ただ、洗脳の恐怖と思想の無力感と言う意味において、文字等の覆し難い確実さと、TVメディアのライトではあるが大量に捌けるパワーに比べ、社会の明確な悪である公害は、扱い方が単純化されます。エンターテイメントです。

よく語られる、 「28日後」 でゾンビは変わってしまった、「らしさ」が失われた、なる説。「俺のゾンビ」的な言いぶんは多々あるかと想いますが、いつかは彼等は、全力疾走しない訳にはいかなかったでしょうね。2002年の「28日後」、2004年のザック・スナイダー版 「ドーン・オブ・ザ・デッド」で、遂にゾンビは禁を侵します。うすのろを卒業し、走って追いかけてくる。車のフロントガラスを叩き割る程凶暴になる。感染後数秒でゾンビ化する。最悪じゃん!これでも生き残れるのか、人類?
今のところ、情緒の無い疾走ゾンビは先程も書いたように、禁を侵して登場した、という論調を多く見かけます。つまり、エンターテイメントとして過剰になっただけだという。そうなのかも知れない。作り手の求めてたものは、走らないゾンビという前提条件は人間に甘い、と。しかし、時代はその頃から、人間にはリアルに甘く無くなってきた。単独で越えられない危機が、あっという間に世界を覆ってしまう。距離はたちまち詰まってしまう。
…、ですよね。そう、インターネットです。BBSはヒト種の凶暴な面を強調しながら、凄まじい速度で伝播した。SNSがインフラ化してきたらもっと露骨です。掲示板だけなら無関係な生活を送ってる人々には伝わらなかった情報も、SNSの普及は、いとも簡単に越えて伝播します。友達の友達は、見る必要の無い掲示板でなくとも見てしまう。もう、近代を越えて現代ゾンビの感染力は、リアルそのものです。

そして、ゾンビは、資本主義の象徴ですらあったゾンビは、ミイラ取りがミイラになるように、消費されました。つまり、怖くないんです。ロメロを踏襲しながらコメディとして着地した「ショーン・オブ・ザ・デッド」。ハンサムゾンビ君がジュリーちゃんに恋をして人間に戻ることを切望する「ウォーム・ボディー」は、後味も爽やかなラブリーゾンビ。 フリーで見られる短編には、非常に感動的なものもありました。あらすじを。自分が感染したことを知った父親が、自分の子供を感染から守る為に、生存者にメッセージを書き、子供をリュックサックのようなものに括り、背負う。

人類にはまだ良心と希望がある。あーん、泣けるよー!

そして、ついについに、ブラッド・ピット主演の特大資本娯楽超大作も登場。 こうなると、ダイ・ハードとあまり変わらず、ひたすら事件を収束すべく群像が闘うだけ。「だけ」って言ったらナンだけど、それはもうあの頃のゾンビをめぐるドラマではない。

随分遠くまで、来たもんですね。

今になってぼくは想うのです(武田鉄矢風に)。コンテンツとしてのゾンビは充分に多様性を得て、ホラーとしての世界から羽ばたき、コメディもスペクタクルも家族愛や恋が人類を先に進ませる物語も、自在です。ま、こんなセンチな感想を持つのも、黎明期のゾンビ世界に深い想い入れがないぼくだから言えることで、ロメロに青春期だったファンは、今でものそのそとショッピングセンターをうろついてるのかも。とは言え、もはやゾンビ君達は、自らをダーウィンに則って進化させ、オタクの手から羽ばたいてます。世界を覆ってしまったんです。




by momayucue | 2017-04-13 22:33 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
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