もーしょんぴくちゃー

エンドレス・ポエトリー 歓喜を喚起する本物の魔術

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たにふじにしては、blogのタイトルが凡庸ですが、今回はほんとに捻りようがない。ホドロフスキー。あの色彩。あの動く映像。メランコリックな音楽。本当にあれこそ映画のマジックです。せめてぼくも頑張って、「歓喜を喚起する」とかつけてみたけれど、「映像の魔術師」みたいな表現って、どうよこれ…。多分世界中に1万人は映像の魔術師がいて、250万人位のCGサポートや特殊効果の職人さんに助けられていて、そして「映像の魔術師」という表現は、9500万回以上使われている。しかし、アレハンドロ・ホドロフスキーの前では、その魔術師達は全て弟子として修業することになるのだろう。

もう少したにふじのタワゴトに付き合って下され皆さま。
88歳。彼の世代の映画監督はおおかたフレッシュさと老練を交換し、熟成しきった作品を作るものだと想います。それにしたってもう何人もいないだろうけどね。そしてその作品は、素晴らしいものになっている筈です。しかしホドロフスキー、いったい世界がどんな色に見えているのだろう。周到でアーティスティックな演出は、年齢を重ねて益々冴えている。一方であの鮮やかな色。まるで東西統一直後の東ドイツみたい。堰を切ったようにPOPが溢れてる。

さて、幾ら何でもこんな文章だけでは何がどう凄かったのかわかんないよな…。ふぅ…、どうすりゃいいんだ。

映画なのに、CGも使っているのに、黒子が出てきたり、監督本人が突然背後の声として、或いは第3の=神の座で道具を受け渡したりする。ありていに言ってしまえば、舞台の演出で使われたもの。且つ基本的に映画では必要ないもの。しかし誰が見てもあれはいちいち感動的。何故だろう。とりわけ監督本人が登場し、主人公に小道具を渡したりする瞬間は、ぼくなんて心がどよめく、っていうか悲鳴に近い声を上げてる。ひゃっ!って感じ。これ、比較じゃなくて喩えとして出すんだけど、ヒッチコックの時代から、監督が映画の中にチラッと出てくるのを捜す愉しみってあるじゃないですか。ホドロフスキーのフレーム・インは、全く性質が違う。監督・主演みたいなのとも勿論違う。物語の本質のみをグサッと語る為に、本人が登場するんです。
現実の枠からしたら、主人公がモノローグで、
「あの時私は…」
とか語ったりする訳でしょう。で、映画は現実じゃないから、モノローグは別として、登場人物の心象風景を観客に伝える為に、演技とか、演出とか、カメラワークとか、音楽とか、ある。ホドロフスキーが主人公に(つまり若き日の自分に)語りかける瞬間、何が起こるか。映画の中に生きる過去の自分に、現在から未来を生きるすっかり時を経た自分が語る現象を視ているぼくは、同時に、過去の幼すぎたぼく自身の時間軸に現在この映画を体験しつつあるただ今のぼくが、言葉をかける錯覚を起こす。これは自分の内側に起こるのだから、錯覚であって錯覚でないようなものです。
一番近い感覚は…。
憑き物が、落ちるんです。

黒子達がさわさわと物を片付けたり、物語のオーナーであり経験者である監督が言葉や動きを劇中で行う行為は、まさしく生き延びた者が悩みを生きている者の呪いを払っている。そして自分が自分にそれを行う場面(演劇的表現だ)に立ち会ったぼくは、自身の憑き物と対峙することにもなる。

なんか、わけわからんな。我ながら動揺しとる。

演劇的な時間は例えば、部屋の中で一夜にして大人になった主人公の姿にも表れます。頼りない少年が一変してジェフ・ゴールドブラムにもアル・クーパーにも似たザ・イケメンになるところもそうだよね。部屋から出てきた彼の顔を見た時の、観客であるぼくの納得感。これは演劇的なるものの超合理性だ。

ゲイを拒否したことである意味自立を実感し大人になったアレハンドロ。彼は、詩人になるべく、詩人のコミュニティに入っていき、様々なものや人と出逢い、「エル・トポ」のように100人斬りをしていく。アートでその都度曲面を切り抜けてく。

そしてね、行き詰まるんです。

焼けてしまった家に帰り、全てをその眼で確かめた。
表通りを唐突にモノクロの汽車が通る(舞台装置、物語化)。

結局、父とは彼にとって何なのか。家族とは何なのか。それを語るのが、劇中の実在の人物であり、生き延びた、それらの誰よりも年老いた人物であり、映画製作ヒエラルキーの頂点にいる監督であり、天才であることを求められ(強いられ)る、今のアレハンドロ。

詩って、子供の頃に学校で習ったときは、一寸文体が気取った短めの作文みたいなものだと想ってた。やがて、どうやら文章や言語に宿る美的センスの結実みたいなものの一種なんだな、と後で考え出した。で、更に推理が必要になってきた。「詩的」なものが、絵画にも音楽にも物語にも映画にもあるみたいだ。その中で、「物語」はなんとなくわかるじゃないですか。言語や文章の作品だし。
しかしいよいよ推理は止まらない。「物語」って、実は物語そのものじゃないんじゃない?例えば写真。ぼくの写真の後ろに、赤いカーテンが映ってる。そのカーテンは、何を表している?グランギニョール的な血の匂い。暗い性。華やかなダンス。それらを複合的に、または抜き差ししながら交代で。誰がどんな意図でかわからないけれど、もしかしたら自分の内部に表現が立ち表れる?いや、その内部に立ち表れる為の装置が赤いカーテンだとしたら、その色には何か外部的な力があるんだ。何処から?歴史や伝統。もしかすると脳。遺伝子。さて推理を終わらせないと。物語は常におはなしとは言えないんです。その最たるものが、「詩」。詩的という指摘は、言語にも文字にも依らずに存在する。闘争でさえある。

なのに、その詩を封じ込めることが出来るのが、言語や文章や、フィルムや音楽や演劇や、いやもう何でもいい。タロットカードの読み解きは、間違いなく詩だ。詩はここで、言語や文字から楽勝で解き放たれましたよ。

ありがとう、ホドロフスキー。

10代の頃、映画やドラマがキライでした。それは自分ではなく、何処かの誰かに起こっている災難や幸福で、しかも自分とはあまり関係が無さそうなものだったので、自己投影するプロセスがないといけないからです。カツラをのっけられたマネキンみたいな感じ。髪型を愉しむよりもスキンヘッドになったときの顔そのものが本質なんじゃないかと想ったなんてのもあります。丁度その頃は、音楽にも「JEFF BECKのRed Bootsしか聴けない病」にかかってたし、何かその、物事のちぐはぐな佇まいに耐えられなかったんです。メロディーがあってコードがあってリズムがあって、ではなく、それらが全ていっこにまとまってないとどうも馴染めない病気。物語なんていう他人の出来事を演技して撮影して編集してるものなんか、実人生と関係ないじゃん。いやもう厨二ですねー。ウォーホールがCMで言ってた、
グンジョウイド、キレイ…
には痺れました。色鮮やかだったり、黒かったり白かったり、それだよな本質って、みたいな。だから、なにものかをもってなにものかを表現する、あんちゅうのはね、いらねーよと想ってたんです。今でも時々、そういう深読みみたいなのを求められるのはヤだなと感じることがあります。
それを越えられるのは、ぼく自身の中に、
「あいつは、おれだ…」
が起こるかどうか。それがないと単なるドラマだ。それともうひとつ、
「おれはここにいる。お前は何処だ?」
そうですそうです、それなんです。
ホドロフスキーは魔術のような色と動きで、自分の物語を見せてくれました。そしてそれは、ぼくの物語でもあるんです。わたしは、ここにいるよ。君は、何処にいる?と。自分を生きるのだ、と。他人の物語でなく、自分の物語こそが、歓喜なんです。

ただ、厨二を過ぎた23歳で渡米して実人生で危険や幸運やその他様々なものを浴びるに至ってからは、共感力が異様に高まり超省エネ感動体質。映画のトレーラーでもう涙ぐんでしまう程。ぼくはもしかすると、なかばホドロフスキーの映画のような光景を生きているのかも知れません。













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by momayucue | 2017-12-29 16:20 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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