ミラン・クンデラ。
フィリップ・カウフマン。
「存在の、耐えられない、軽さ」
ところで、「重い」とは何であろうか。
「存在の耐えられない軽さ」と言うからには、本来「存在」は重いのでは?というテーゼがある。…に決まっている。しかしね、存在って、重いとか軽いとか…。うーん。
映画について書きます。
舞台は、チェコスロバキア。時代は、プラハの春、1968年。
腕のいい脳外科医のトマシュは、遊び人。バンバン女と寝ちゃう。しかし、出張で訪れた病院で、手術を口笛吹きながらサクッとこなし、帰るというときに、プールでテレーザを見て、運命が変わる。2人は情熱的に愛し合った。ただ、問題がふたつ。ひとつ。トマシュはそれでも女遊びを続けてたこと。もうひとつ。ソ連の侵攻、プラハの春。
ぼくは、差別とか弾圧とか、嫌い。差別してる奴を差別したくなるし、弾圧とかされると元々興味なくても手を出してみたくなる。ただそれと被るのかというとそうではないけれど、昔から、共産主義を悪と決めつけるのは抵抗があった。共産主義って単なる経済のスタイルであって、しかし経済学を超えた思想に踏み込んでしまった代物。何故かっていうと、中央集権を更に極端に、独裁が不可欠な機能であったから。これは、許容するか否かは、思想の問題になる。独裁はうまくいけば美的にも調和の面でもベストだが、何がNGだったかって、快感原則に反する。幸福な支配というのも理論的にあり得るのに、支配されるって、すごくすごく気分悪い。
しかしまあそんなぼくですので、共産主義イコール悪という発想をアホかと想ってしまうし、独裁や紛争は嫌だけど少なくとも共産主義のせいではなくて、共産主義を操れない人間という種の限界だと想ってしまう。
彼等は亡命し、しかし決別し、また出逢う為に帰国して、仕事や友人を失って、そしてたったひとつの軽やかな重さを手にした。
幾つか連想した。
例えば瀬戸内寂聴。彼女は本邦の奔放を代表する若き恋と革命の戦士だった。だから、今も恋と革命を支持する尼さんになった。なんて清々しくカッコイイんだろう。心と身体が求めるものに、欲望に忠実で、他人を責めないし、自分も責めない。
それから、太宰の「人間失格」。主人公は太宰自身の投影なのは言う迄もないが、ぼくはその主人公が、生理的に大嫌いだった。太宰は恐らく読者にそれを求めたからああいった文章になったのだろう。自分を無益で小器用なだけで軽い存在としている。時間が経てば経つ程、ぼくは太宰に近付いていった。太宰は、自分を責めることを続け、「自分を責めてしまう全ての人間」を肯定して見せたのだ。
映画に戻ろう。
これは、恋愛映画だろうか。時代に翻弄された愛の映画だろうか。属性を奪われても一途であることと奔放であることを等価とした価値観の差異の映画だろうか。原作を読んでいない(そして今の処読む気になれない)ぼくは、ひとつだけ気になる個所がある。ラストシーンで運転するトマシュの発する科白。これは原作にもあるのだろうか。それとも映画の時間軸だから加えられたフィリップ・カウフマン監督の裏テーマだろうか。どちらにしろ、とてもとても、軽い重さを帯びて、クロージングの余韻を迎える。素晴らしく切ない。それでも、何か違和感が残る、悪い意味ではなく、恋愛映画…と呼ぶことに。
「ひまわり」は、永遠の愛を誓った筈の夫が招兵され、戦場で記憶を失うのと、待ち続けた妻の悲劇だった。しかし、反戦のメッセージも、うつろいの無情も、映画に対し充分に的を得ない。何かの定理を語るのでなく、ロマン(notロマンス)だ。実は物語とは、ロマンだけあれば心も身体も動く。だから、正しくも何ともない清々しさという現象が起こる。
「存在の耐えられない軽さ」は、紛争も、互いの食い違い(まさしく重さと軽さ)も乗り越え、羽のように踊ったふたりの笑顔が、悲劇を超えて幸福をもたらす。そう、これは、悲劇ではない。救いに満ちた結末だ。
救いに満ちたエンディングは大概、結末じゃない。例えば地球が救われるSF活劇。それには、本来続きがある。また隕石が?また侵略が?…。
しかし「存在の耐えられない軽さ」は、もう続きがない。
いかんなどうも。少しメランコリックになっているのかも知れん。たにふじよ、テキトーに行けよ…。