ASD、自閉症スペクトラム

発達障害というのは、微妙な枷だ なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の驚異/ダロルド・A. トレッファート

d0041508_21374416.jpg

d0041508_21374462.jpg

なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の驚異/ダロルド・A. トレッファート

この本は、とある治療を受けていた頃に(今もって完治でも寛解でもないけれど)、夢中になって読みました。
言う迄もなく、自分のことだからではありません。
ぼくには、そんな長けた所なんて何もありませんし、
ましてや単なる要領の悪い奴ですから。
ぼくなんかがADHDとかASDとか宣言してことをおおめに見て貰うのは、
本当に苦しんでいる人の妨げになる…、
…とすぐに遠慮して自分を抑えてしまうのが、
ある意味「ノンアサーティブ」な特徴。つまりそういうことです。

はいどもっ、物凄く生き辛い、たにぴ@もまゆきゅです。

このblogの読者の中で、自殺を考えたことがある人は、どのくらいいるでしょう。
これ迄一度も考えたことがないって人もあまりいないと想うのですが。
ただ、本当に大ピンチだったり、全く誰が考えても死に納得行くということじゃなくて、
何気ない日常の中に、特に際立った特徴もない光の動きの中に、
自分の「死」を投影してしまう人は、ぐっと減るでしょう。
ってか、上の文章の意味すらわからないでしょう。

今回は少し重層的な文になります。

冒頭に、また表題に書かれた本は、所謂常人の能力を遥かに超えた障害者達の実例を、判断出来る最大限迄参照して、一定の解析を試みたものです。まさしく驚異的な力に驚き、同時に日常的な力との落差にまた驚く。人間の潜在能力とはこうも極端なのか。オリバー・サックスにも驚かされたが、この本でも驚く。それは例えばサイコキネシスみたいな有るか無いかの問題ではなく、極端さから極端さへの急カーブ。
だから、もしかすると、段階によっては解ることもある。例えばぼくは、普段全く素振りも見せない人が突然自死してしまう可能性を全体として理解出来るし(この「全体として理解出来る」という表現が既にトンチンカンだが)、だからこそ何とか止めたい。自分自身に対しても含めて。
そこにある絵が、聴こえる音楽が、死を呟くんです。

これから時々、もしかすると頻繁に、ASDについて、自分の経験や想うところを書いてみよう。そう決めました。ぼくがそれらに該当するのかどうか、専門家でもそう言ってくれる人とそんなこと考えなくてもいいよって言ってくれる人といますし、良くわからないです。苦しんでいる人達の事例を読んだりする度に、ぼくなんかがそんな障害者ヅラしたら誤解を広げるだけだ、とも想いますし、既に世間は充分にASDを誤解している、いや理解したことがないんだから、出来ることがあるなら何とかしなくては、…とも想います。
まあ一言で言えば、ぐるぐると廻ってるんです。いつも。

このテキストのタイトルがサヴァンに関する本だからって、ぼくに天才性があるとか想ってるわけでも、それどころか僅かな価値があるとすらも想ってるわけじゃないんです。ただただ大変なだけ、じたばたしてるだけだし。ただ、極端なポテンシャルと私達やあなた達は、緩やかとは言えない曲線だけど地続きなんです。

よって、このカテゴリーのblogは、一寸イヤな感じになるかも。めんどくさい感じになるかも。でも、ぼくや、生き辛い人や、少しの人の助けにはなるかも、と期待を込めて、書くことに決めました。ぐるぐると廻りながら。

今回のテキストが「重層的」と予め宣言したのは、幾つか理由があります。
・敢えて、極北とも言える例で、サヴァンの本について書きました。
 「ゼロとイチの断崖絶壁ではなく、
 人生の中で何かの事故で引き起こされるかも知れない特殊性」
・国によって違うけれど大まかに人口の15%程度いると言われる自閉症スペクトラム(ASD)。
 短気に見えたり、社会的に問題を起こすことも少なくない。トランプ的。
・ASDなのかどうか、揺れ動いている自分という存在の扱い。
これらについて書いていこうとしてるのですが、何しろ自分の例だけ書いてると気も滅入るし読む人だって迷惑だろうし、何かしなくては…。もともと精神世界系の話は、硬軟とも、真偽とも、興味を持ってもいたし、一見別々なものでも関連付けながらその段階を分析出来ると想っていたので、ぼくはその視点から考えていくことにします。つまり、重層的なのは、極北から卑近迄を繋げたいからです。


個人的な癖。果たしてこれがASDにあたるのか判らないけれど。

親しい人。家族とか、親友とか、そういった人になるのかな。ある種責任がある人…、その人を守ったり、心配かけないようにしないといけない人。…に、
「大丈夫?」
と尋ねられて、どう答えます?
「大丈夫」
って、言っちゃいませんか。その時、本当に自分が大丈夫否かに関わらず。
そして、大丈夫じゃない…と言う次の友人を探してしまうことは?

親しくない人。職場の知人とか、に、この予算計上と使用状況を比較しておいて、と依頼されて、
「比較って、どうやるんだろう。差分を出すんだろうか。
予算は〇月で使用したのは〇月だけど、請求書が来るのは〇●月だったら、
どう『比較』されるものなんだろう…」
と混乱するのに、
「はい、わかりました」
と言ってしまう。

別な人に、依頼されたことを解釈して伝えると、自分でも判っている気になったが、
いざやろうとすると、皆目判らない。

失敗が多い。統計的に。

そんなふうに考えがちじゃないですか?ぼくだけですか?
出来ることなら、ぼくはぼくが「ザ・コンサルタント」の様なスーパーマンってことにしたい。何か強烈なポテンシャルを持ったコミュ障。でも実際は、ただのコミュ障で、それさえも精神的障害というよりは単なるダメ人間かも知れない。今もそこを揺れ動いてます。具体例も幾つでも挙げられる。しかしそれはさ、やはり自己弁護的になるし、止まらなくなる怖れもあります。


指摘されても失敗の理由が理解出来ず、説明を受けても恐怖の方が先に来てしまい、くよくよが去らない。常に何かを恐れていて、その恐れ故に眼の前の出来事にも「そうですね」「わかりました」ということしか出来ない。いや、何となく理由は判っている。いやいや、判っていない…。

ぼくは自分のタイプを「恐怖型」と考えています。「怒り型」「無頓着型」とあり得るけれど、所謂天才のような発出が無い限りは、基本的にそれらは枷として、それも、認知されにくく本人も認知したくない、「微妙な枷」として、静かに重く覆い被さってくるんです。
























[PR]
by momayucue | 2018-03-21 21:37 | ASD、自閉症スペクトラム | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31