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もーしょんぴくちゃー

何故快挙なのか、あまりにも快挙過ぎて。 Shape Of Water

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たにふじです。

年間映画トップテンとか、作れないもん。新作を劇場でなんて、10本をかろうじて超えてる程度ですが、やっぱり第一次オタク世代としては、同世代の怪獣オタクを支持しないわけにいかない。一方でアニメや漫画原作のものは辛口にならざるを得ない。
こう連ね書いて今初めて見えてきた。要するに、
「オレはこんな程度で、つまりアニメとかこんな程度でも仕方ないじゃん」
という、自己肯定感の異常に低い自虐メンタルなんだ。アカデミー賞とか取れっこない…的な。

2018年、つまり17年公開作品のアカデミー賞に、ギレルモ・デル・トロ監督が選出されました。

「シェイプ・オブ・ウォーター」という美と皮肉と優しさがぎゅうぎゅうに詰まった1本の映画が、その年アカデミーを制しました。鴛の40代女性、初老のゲイ、旦那の悪口を陽気に飛ばす黒人女性、そして、半漁人の、群像劇。そうとうに異色な文芸映画。これを怪獣モノとぼくは認めない。もっと言えばこれはアカデミー賞を取る為の映画だ。いや、否定的なニュアンスが入っちゃうなあ、…そうだ、これは、フリークスが逆襲の狼煙を上げた記念碑的映画です。でも怪獣モノの道は遠い…というのがぼくの正直な感想。

ざっくりといつものあらすじ。

1962年、アメリカの、田舎という程ではないどこか地方。軍の秘密研究開発が、ひっそりと兵器開発をしている。イライザは、そこの施設で夜勤の掃除の仕事をしている、40代くらいの、痩せた、声の出せない女性。恋人も家族も無く、地味な暮らしだが、友達もいて、平穏だ。毎日、夜に目覚め、入浴しながらマスターベーション(!)の日課の後、その日(その夜、か)も、いつものように施設へ向かった。厳重な警戒。いつもよりも物々しい雰囲気の中、1匹の不気味な生物が運び込まれる。頑丈な水槽というよりはタンクに閉じ込められたそれは、時折り光る肌の質感こそ禍々しいが、手足を持ち、身体の形は大柄な人間の男性を想わせる。彼は、アマゾンの奥地で、原住民に神と崇められた半漁人だった。イライザは彼を不用意に恐れず、こっそり「掃除」と称して彼と逢いにいくようになり、少しずつ彼の方も心を開いていく。やがて、平穏だった彼女の人生が走り始めた。軍は半漁人の屈強さや鰓呼吸の仕組みを人間兵器にする為の解剖を施そうとする。ソ連のスパイがアメリカに出し抜かれまいと画策する。その中で、イライザや半漁人の気高さと自らの良心に導かれた僅か数名が、彼を助けようと未熟な作戦を実行する…。

まあこんな感じです。

要するに、コミュニケーション不能な怪物が人間文化を壊しまくる映画ではないです。はっきり言って半漁人はイケメン枠、怪獣というよりは、ウルトラマン。イライザは美人とは言えないけれど、デル・トロの愛情溢れる映像で、たまらなく可愛く切なく素敵です。ヘル・ボーイともパシフィック・リムとも全然違う、完全シニア向けの映画です。楽勝で官能メロドラマど真ん中です。イライザの抜群の裸も性的な場面も何度も出てくる。何せオナニーですから生半可な女優じゃない。シャロン・ストーンだってもっと隠してた。イタリアの初体験ポルノ並みじゃないか。

さて、いよいよここから「猛毒」いくぜ。覚悟しろよみんな。

カイジュウは、怪獣として登場しない。異形で畏敬の対象です。ウルトラマン側ですから。しかし、そのウルトラマンにとろける地球の女性とのFxxKは、現実味のある倒錯趣味だ。60年代辺り、アメリカではミッキーがミニーと交わるポルノが好事家の間で出回ってた。「お嬢さん」が美女に官能文学を読ませてはぁはぁ言うブルジョア共のサロンが舞台だった。「ジャンゴ」でディカプリオが演じた、趣味で黒人同士を殺し合いさせるような悪趣味とは違う、万人受けしそうなソフトフェチなんです。ウルトラマンだって、恋をする。半漁人だってこれ迄してきた。「怪奇大作戦 24年目の復讐」は、戦後祖国に見捨てられた日本兵が海底でも生きられる体質に変化して人間を襲う話でした。基は人間なんです。ウルトラQウルトラマンのどちらにも登場した「海底原人ラゴン」は、子供を守ろうと怒り狂う家族想いな生態でしたし(そう言えばヤツは音楽が好きなんじゃなかったっけか)。ここでも半漁人の彼は、どう考えてもロマンチックな範疇なんです。そりゃ女性人魚のようなわけにはいかないけどさ…いや、待てよ…、女性人魚の方がコトに及ぶのは無理があるんじゃないか。その点男性人魚なら…、そうか、そういうことか。キレイな画面に出来るな。こうデル・トロが考えたのだとしたら、その先はするすると浮かぶ。
人間の女性はあまり美人じゃなくても、気前良く脱いでくれて、性格が良さそうならもう可愛いじゃないか。性格の悪そうな美人なんてメじゃない。
そうして、彼女の側につくマイノリティ達が、1962年のアメリカつまり、「反差別にうんざりしている貧乏な差別主義者」と、「差別を日常的に享受しているエリート達」に抗う物語になる。今のアメリカは、当時にそっくりだ(そしてぼくの眼には、日本も、ヨーロッパも、国家と言う国家、コミュニティというコミュニティが疲弊して、良心を守れなくなったり。いもしない敵に怒り怯え、対話は決裂していくように見える)。インタビューで監督自身も語っていた。この映画の時代設定は、今を描く為のツールだ、と。

言う迄もなくここがポイントだ。「反差別にうんざりしている貧乏な差別主義者」とは誰のことだろう。差別していい相手を選びながら、八つ当たりをする奴等だ。現代社会にも幾らでもいる。では差別していい相手とは誰だ?弱者って誰のことだ?性的マイノリティと、有色人種と、オタク。果たしてそれらが数の論理でマイノリティかというと、案外そうでもない時代になってきました。数は恐らく元々そう変わらないんだけど、…だけどだけど、立場的に強くなってきた。この映画の舞台であるアメリカに、有色人種はどの位いる?男女比は?そして、性的マイノリティは?彼等は、虐げられて力を奮えなかっただけです。そして、彼等に権利を、と訴える声が出せる社会になってきていた。2016年迄は。
ところが、「反差別にうんざりした」層が、八つ当たり相手を捜すことになる。彼等は報われない。誰も救ってくれない、差別すらされないから、誰も守らない。真っ当な理由がないからです。貧困なのに。いやどんな人達にも、報われない人はいて、「反差別にうんざりしている貧乏な差別主義者」だけが報われない訳ではない。本来なら共同体や社会制度が、「貧乏な」の部分だけでも支援して然りなんでしょうけど、残念なことに、貧乏が原因であったとしても、反差別にうんざりしてるのも差別主義者になっちまったことも、それじゃあしょうがないねとなる筈がない。であれば誰かが、例えばアフロアメリカンでゲイパーソンでドラッグ・ディーラーが、自己治癒していく為の物語が、賞レースで勝って引導を渡すべきだ。そして、オタクだ。
ぼくが18歳の頃、初めて「お宅はどう?」という会話を聞いた。やがてそれは一般化して、オタクという文化が生まれた。その頃に比べたら、マーケットとしてもパワフルになったし、誰もが、自分をなにがしかのオタクと呼ぶようにもなった。しかし、それでもオタクは市民権がなかったんです。スピルバーグ?ルーカス?いやいや彼等は娯楽作品の作家で、殊スピルバーグは何でも作って当てる能力があったけれど、怪獣やSFでは大向こうウケする賞なんて取れない。もっとはっきり言うと、オタクがオタクたる面子は(なんじゃそりゃ)、「悪魔のいけにえ」レベルの、ぼくなんか怖くて近寄れない作品で保たれるでしょう。だからこそ、
Moonlightの変翌年に、ひとりの監督が、為し得たことが、快挙であり、快挙であり過ぎたんです。


ギレルモ・デル・トロ監督。メキシコ出身、オタクデブ。彼は友達がいなかった。モテないし、身体が重たいし、セックスアピールのかけらもなかった。家でTVばかり観て、日本の怪獣やアニメに夢中になった。ぼくと同じだ。まあぼくはがりがりの痩せっぽちでモヤシとあだ名されてたパターンだけど。彼は、怪獣に共鳴したらしい。異物として駆除される為に出てくる、たった1匹ずつの種(ヘルボーイのあの植物)に、自分を投影してた。
ぼくはそこが違ったと言えば違った。メカが好きだったんだよね。あ、子供の頃はザ・怪獣博士だったけど。名前も身長体重も、何に出てきて何が使えて何に弱いとか知り尽くしてた。怪獣に同化は求めなかった。自分は怪獣じゃないと、皆と変わらないと想いたくて仕方が無かった。口癖になってた、「ぼくは変わり者じゃないよね?」というのが。
そのうち50歳を超えた。父の享年を越えた。ぼくは天才じゃなかったけれど、デル・トロはメキシコが生んだ21世紀における天才監督のひとりだった。怪獣を配した隙のない傑作映画を撮り続けた。どうすれば隙が無くなるかというと…、実に簡単ですよそれは。ちゃんと愛するだけ。ローランド・エメリッヒが描く「スペクタクル全部乗せ」は、ある意味ポピュラリティーを信じてるから出来るんだろうけど(ぼくはちょっと苦手)、デル・トロは、全ての描写に、
「これならファンに愛してもらえる」
と想えるものを注ぎ込んでる。これは、
「これなら観客が楽しんでくれる」
で終わるのと、物凄い違い。パシフィック・リムのメインテーマは、マジンガーZのように皆が覚えたでしょう。しかし天才の彼はそこで終わらない。今回の作品は、バンズ・ラビリンスのようなアート・フィルムとして完成するのが野心だ。

アートフィルムって、孤独です。
昨年の"Moonlight"は、完全にアートフィルムだった。色が独特で、そこにも意味があって。音楽はミニマムで。黒人で、ゲイで、貧困の麻薬密売人。最下層の物語。これがアカデミーで作品賞を取るなんて、確かに画期的です。しかしそれ以上に孤独なのは、スペクタクルではないこと。最後に銃撃戦で非業の死を遂げる登場人物がいれば、観客は盛り上がる。勿論ぼくも盛り上がる。しかし、ムーンライトは奇跡的な映画。ただ美しいだけの物語です。それが去年、すったもんだありながら、受賞した。
だとしたら、デル・トロのチャンスはそこにある。今こそ自己の作家性をめ一杯発揮した映画を作ろう。
半漁人と中年女性のラブロマンスなんて、そんなの怪獣モノじゃない。
フェティシズムです。グロテスクです。
つまりもっとマイナー。しかし大人向けのビューティー。
それを最高に美しい物語にするのが、デル・トロの使命。造形を練り、ストーリーはあくまでホラーなまま終わるが絶対に肯定的にし、そして差別こそを醜く描く。彼はやりきった。あの醜悪なサディストのストリックランドでさえ、イライザに恋をした。映画技術と情熱と実績を駆使して、彼は怪獣映画よりも集客しにくいフェチムービーで、勝ちに行ったんだ。

デル・トロは結果、アカデミー賞を制した。快挙過ぎる快挙を達成し、「反差別にうんざりしている貧乏な差別主義者」に引導を渡し、「差別を日常的に享受しているエリート達」に気付かせることを、じわっと進めた。大当たりしてカネになる怪獣モノを、カネだけじゃないものにして見せた。
ロメロディヴァイン映画秘宝も、少しだけかたき討ちしてもらえた。レザーフェイスもチラッと映ったし。
ほんとはずっと昔から映画はそうだった。誰かの救いにならなかった映画も、誰かの救いだったかも知れない。
ぼくとしてはいつか、パシフィック・リムがもっと物静かな映画に生まれ変わって、(出来ればロボット以外のメカもカッコよくなって)完璧なドラマとしてオスカー取れたら、夢みたいだ。でも、夢だ。遠すぎる…。


あ、いっこだけはてながでた。
ネタバレ避けるの難しいので、言いませんが(またかよ。拳銃ry)。

















Commented by とど at 2018-04-06 20:05 x
リンクは私のブログではありません。たにぴさんのこの記事を読んで、「あーお薦めすれば良かったかな…」と思ったテレビ番組の紹介ページです。(ちょうど、閣下ゲストの回の1カ月後(^^;; )
Commented by momayucue at 2018-04-08 15:00
とどさま、どもども。
リンク先見させてもらいました。
テーマ「同じ」っていうのは、このサイトからだとどんな意味合いになるかわからないけど、
何か外部への違和感と疎外への恐怖感みたいなことなのかな。
ぼくのはまさにそれなんだけど。

それから、ウルトラマンはスペシウム光線だけど、
ひとりだけセブンのワイドショットのポーズの人がいますね。
(怪獣オタク(^^;)
by momayucue | 2018-04-06 12:14 | もーしょんぴくちゃー | Comments(2)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


by momayucue
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