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もーしょんぴくちゃー

ブリグズビー・ベアを教えてくれた人に、百万の感謝を

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非常にマイナーな映画を観ました。
何回言ってみてもタイトルをちゃんと憶えられないのですが、
「ブリグズビー・ベア」だったと想います。合ってる?合ってるよね??

世の中には、ネタバレを絶対に避けたい傑作映画と、ネタバレしても傑作の映画とありますよね。勿論、ネタバレしようがしまいがひたすら酷いだけの映画もあるのですが(リンク先に悪意アリ)。
この何とかベアは、ネタバレをもろともしない傑作。
なんだけど、一寸特殊なのは、
幾ら頑張ってストーリーを説明しても、この映画の素晴らしさは「観る」以外に伝えられないことです。
元々すぐに映画とかで泣く方ですが、
(予告編で泣くくらいに省エネ感激屋)
いやあ、泣けた泣けた。生涯のTOP10にはいります。

ざっくり言うと、
独りの、(実は酷い理由で)世界と隔離されていた若者ジェイムスが、社会を知り、社会の方も混乱しながらも、お互いを受け入れ、和解し、そして何故か、映画を撮る(^^;という話です。何となくハートウォームでコミカルな話なんだろうな、と想うでしょ。それは全く正解。その通り。しかし、そんなレベルで終わってはいけない!観ないと素晴らしさがわからない!

早速検索してみると、小さな上映規模のこの作品でも、巷の評は多少あたれます。しかし、何故こんなに感動的なのかを伝えられているものは殆どないです。それはボギャブラリーがどうこうと言った話ではなく、説明しても逃げていくんですよ、ほんとに。劇場では泣いてる人だらけだったし、拍手まで起こったけど、いざ言葉にするのがすっごく困る。
困るけど、薦めたい。

冒頭に出てくる、VHS感満載の映像と、チープ過ぎる着ぐるみ。いやいや、そんなマニア限定の世界じゃない。お母さんのずっと不安げな佇まい、そしてお父さんの誇りに満ちた教育態度。いや、これは贖罪でも断罪でもない。何処にでもいる、時にはイケナイこともするティーンエイジャー達。いや、そんなパーティー讃歌とかじゃない。映画作家を目指す友達の部屋に、「遊星からの物体X」のポスター。でもそんなことに気付くのがこの映画を楽しむ資格じゃない。

ぼくは、音楽を作っています。かなり古い機材や、ビンテージにもならない半端な機材や、手法で、作っています。映像をつけたこともあります。スマートフォンとかで撮って、大雑把にだけど。そしてブリグズビー・ベアは、映画を作る日々を描いている。しかし、音楽や、所謂一生懸命モノづくりをする喜びを知っている人の共感は、マストじゃない。無くていいんです。坦々と日常を過ごす、忙しくて、お金もそんなになくて、疲れてる人々。彼等は勿論ぼくらでもあるし、モノをつくる幸福よりももっと大事な、仲間と笑ったり、家族と抱き合ったり、孤独な暮らしの中でも他人に敬意と誇りを持って接したり出来る人間たること。
「強くあれ!」
と、あのルークが言った。そう、それだけのことなんです。

音楽って、聴くだけでなく演奏したり、ましてやレコーディング作品を作ったりしてると、やはりオタクの世界になっていきますよね。
「ここはスティーリー・ダンのGaucho風なサウンドにしよう」
デヴィッド・ヴァン・ティーゲム風なパーカッションを」
「もう一寸アナログ感が
…てな具合。映画だってかなり強烈です。ヒッチコックへのリスペクトが動機になっているデパルマ。ノーランのフィルムへのこだわり、ホドロフスキーの孤高のオリジナリティブレード・ランナー以降のSFが様変わりしたこと。などなどなど…、敷居が沢山。
町山智浩さん。彼はひとつの映画について、宗教や古典文学や勿論映画や、あらゆる知性を総動員して解釈と没入を助けてくれます。そして、
「映画は何も知らないで観ても面白いが、その背景を知ると100倍面白い。そして、知ってからもう一度観るとまた面白い」
とキメ科白をかまします。ぼくもそう想います。元ネタにも思想があり、物語が巡っている。但し、今のところまだ、「ブリグズリー・ベア」という傑作については、元ネタがあるのかどうかもわからないし、何も知らなくても全く損なわれない感動がある、と言い切れてます。大丈夫です。マニア心をくすぐるとか、そんな敷居は1ミリもない。ぼくは今もまだ自分があの映画の登場人物になったような気分でいる。

そうだ、まさにそれだ。ぼくは、あの日ジェイムスの仲間になったんだ。

ぼくらは、交代で眠って食べて冗談を言ったりキスしたりするだろう。ありきたりな不安に押し潰されたりもするだろう。友達の為に、正直に、あれはみんな自分がやったことだ、と言うだろう。
「激ヤバだ!」
と言い合うだろう。隔離された日常が巨大な世界に変わったとしても。

もうひとつ。いやふたつ。巷にある映画評。そこにはこの映画に対する釈然としない想いが、2種類あるようです。ひとつは、誘拐犯が肯定されているのが解せない。もうひとつ、善人しか出て来ないのが現実的じゃない。

これねぇ…、幼児を誘拐して25年監禁してたのは、非常に困った。ぼくが圧倒的に感激したあと、最初に口にしたのがやっぱりその点でした。誘拐犯を安易に許してる?と戸惑った。それでも、どうしてもこの作品をネガティブに見ることが出来ない理由を考えた。大向こうの解説では、マーク・ハミルというキャスティングによる、とのこと。POPカルチャーのアイコンでも犠牲者でもある、老いたルーク・スカイウォーカーこそが誘拐犯をある種の好人物として演じられるのだ、という説。微妙なラインで、説得力はあるのですが、確かに殆どアテ書き的な誘拐父さんだけど、ぼくは、「そういうことだろうか…」とハテナが取れない。
ところで、ジェイムスがジェイムスという人格になったのは、どうやってだろう。「グリムズビー・ベア」のおかげであり、まあ誘拐犯の教育の気合い入り過ぎたおかげだろう。それはそうとしても当然、グリベアも教育も誘拐父さんの一部ではあっても全部じゃない。誘拐母さんは不安症っぽいし、恐らく子供を持てない夫婦であり、しかも比較的裕福だったんだろうと想われます。だったらなんで養子縁組とか…、って、誰だって想います。要するにどう頑張っても(頑張るとこじゃないし)奴等は他人の人生を破壊している許されない奴だ。ただ、世界にたった独りだけ、奴等を許す権利のある人物がいる。いますよね、わかりますよね、ジェイムスです。
少しずつ世界を理解する。パーティーで絡まれながら、スーパーでSNSの権化みたいな奴等に写真とられたり(ここ伏線)しながら、ジェイムスは堪え処落とし処を見つけていく。偽両親の罪も、大まかにではあるけれど理解して、(こんな台詞はないけれど)
「ぼくは傷ついてないからね」
と態度で示す。もう、第三者が偽父に何かを振りかざす必要はないんです。

さて、善人しか出て来ないのが現実的じゃない…ですかね?そうですか?その現実は、本当に現実ですか?
もしも周辺に、突然、
「これから紹介するタニフジさんは、幼い頃に北海道で監禁されて、日本を知らずに育ちました。犯人は有名なデザイナーだったけど今は服役してます。皆さん、宜しくね」
と紹介されたら、どうする?まあそこそこ普通にしますよね。好奇心は持つけど、そんなに露骨にイヤなことしますか?かつて退避命令が出てた戦場に取り残された日本の若い人達が、帰国後に行政も含めた世間に矢鱈と叩かれました。しかし、身近な人達は無事を喜んだし、批判してるのは、要するに間接的な関係性の奴等だけです。心の中ではゲスな好奇心があっても、それなりに毅然としたいと想うもの。警察官も、妹の友達も皆そうだ。唯一表面化してるのは、妹の、
「いい歳してやめてよね」
という言葉だけど、実際にはジェイムスは25歳分の経験なんて積んでない。もう兄ですらないから、やがて只の仲間になる。カウンセラーだけが、クライアントと距離を取る。それも仕事だから。しかし彼女でさえ、もしかしたら最後は映画に出演して…と想わなくもないなぼくは。要するに、SNS的な拡張が悪の態度を産むんです。泥棒はいるさ、でも、そんなに滅多に逢わないでしょ?普通は皆それなりにイイ奴なんです。
……、いやいやそれは甘い。だってさ、女子プロレスラーだったダンプ松本の家には、物凄い嫌がらせが来てたらしいぜ。石は投げるわ落書きはするわ、罵倒の電話がかかってくるわ。犯罪者の家族や、ヘタすると被害者さえも人間はこそこそと攻撃する動物なんだ。スキャンダルが好きでたまらないんだ。悪ノリが、あんな大統領を産んだりこんな総理大臣を生かしてる。分断し差別し満足を得るのが人間だ。
それについて監督が、ざっくりとこんなことを話しています。
「この映画では、人間の基本的なマナーについて描いています…」
明らかに現代は困難な時代。差別や偏見や分断は、寧ろ明らかになっている。しかし明らかになっている分、面と向かって行使されず、外面を繕い、何処かでバーチャルな毒舌が展開されながら、もうちょっとましな態度で暮らしを送る。
だとすると次第にボロが出る展開も予想されます。実際、多くの人がそう予感した筈。
実の両親も、妹も、刑事さん達も、新たな友達も、
やがてはブリグズビー・ベアでさえも、
ジェイムスを追い詰める側に回るだろう…と。
ところが映画では、そうならなかった。ぼくが今になって想い出すのは、「アルジャーノンに花束を」です。
知的障害を持つチャーリーは、いつも笑顔で、友達も沢山いて、幸せだった。でもいつか賢くなってみんなと難しい話をしたいと願っていた。或る日、チャンスが来る。最新の脳外科手術によって、障害どころか異常に高い知能を持つようになって、その過程で彼は、残酷な現実を知っていく。友達だと想っていた職場の仲間は、実は自分をからかっていただけだった。それでも正義感と向上心を失わないチャーリーは、彼等にも正しいことをしようとし、やがて疎まれる。ところが、最後の最後、知的に退行してもとの職場に戻ったチャーリーを、虐めようとする新顔の奴等から、やめろこいつはいい奴なんだ!と庇ったのは、かつての仲間だった。
ぼくがこの歴史的名作とブリベアの共通点を感じるのは、特殊な状況でありながらも、周囲を巻き込むような根源的な誠実さです。アルジャーノンの読者は、チャーリーの変質に、関係者達の残酷さと内面の変化に、読者でいながら自己の誠意と向かい合う厳しい体験をする。
ブリベアを観たぼくは、ジェイムスの仲間になれるかどうかの資格を問われた。多分、その審査は緩い筈だ。だから、ぼくはジェイムスの側に行く。


バンマスゆーこさんに、それ程気が進まないまま連れて行かれて、結局ずっとひくひくと泣いていたぼくが、彼女に最初に言った言葉は、
「ありがとう」
でした。教えてくれて、ありがとう。そして、ゆーこさんにこのマイナーな映画をゴリ推しした職場の友達にも、ありがとうを。ぼくは、本当にいい体験をした。


てなわけで、機会があったら、是非、もまゆきゅを信じて観て下さい。













by momayucue | 2018-08-01 21:29 | もーしょんぴくちゃー | Comments(0)

モンキーマインド・ユー・キューブ・バンドのミュージックライフ。 こんな時代も音楽でしょう!


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