「パソコンの時代、計算機の時代は過ぎる、PUCのコンセプトを提唱するって、それって計算じゃん。要するに、全部コンピューターで、全部計算だろ」
的な。ここに原丈人さんの構想の大きさと、小ささと、生活観が、外部的に現われている。
原さんのイメージでは、コンピューターの形をしているものをコンピューターとし、しかしあらゆるものの中にコンピューティングは、小さく軽くヒューマニティを持ち込んでくる。
それは、現状のコンピューター社会のスペックと方向性では全く折り合わないという意味だ。スペックだけなら、まあ上げるしかないでしょう。しかし、方向性が違うとなるとスペックを上げる行為は「永遠に無理をし続ける」だから、NGになる。
着眼を変える。例えばXVDという映像技術は、ブロックノイズを極力小さくする為のスペックを開発するのでなく、捉える情報を変えることで、人間の視覚と知覚認知に親和性の高い映像を結ぶ。
彼の構想の小ささは、「アトムの筈がケータイだった」という様な比喩でも言えると想います。だって人類は、アトム的世界で暮らしている訳じゃないから、必要なのは普通のコミュニケーション、恋とか団欒とかなんだから。そしてこの普通のコミュニケーションを、脆弱なインフラでも、アフリカでもバングラデシュでも取れるとなると、それは医療にも結びつき、やがて団欒にだってなる。これらが全うされたら、殆どアトムレベルの仕事が出来る。
うーむ、こういうのをグランドデザインと呼ぶんだろうか。
音楽はプレゼン行為だから、本当はプレゼンに囚われて本質を見失うな、なんて言ってはいけないのかも知れない。しかし、株券、極端に言えば貨幣という実態の無いものに依存している経済は、単にプレゼン能力に支えられているに過ぎない。優秀な営業マン。それは突破口としては大事だから、原丈人さんはプレゼンを行う。しかし、どうやらこのほら男爵は、知っている様なのだ。プレゼンではなく、デザインなのだ。表現よりも、ものづくりなのだ。
音楽はプレゼン行為。聴く人がソノ気になってなんぼ。しかしそのフロントにある広告のパワーときたら…。いや、広告も作品と想って仕事してる人には失礼しました。喩えを代えよう。アメリカの、証券ビジネスマンの、プレゼン教育。それを私は、信じない。
単純な話、音楽は音楽なんだ。
この原丈人さん、それと、もはや当blogレギュラーとなった感のある、トム・ヨーク。
この2人の何処に、不肖たにふじがくらぐら来るかってえとですねぃ、「全く諦めず、何としても突破する」「あらゆる局面に、自らの作家性が感じられる」つまり、アートだこれは、と私は想うのです。いや、想いたいのです。
私にはずば抜けた才能など無い。そして多くの人が、手持ちの実力と評価の中で暮らす。
私がずっとずうっと前から繰り返しているのは、それでも特別な順番が回ってくる、その持ち回りのステージをこなす為の、緩やかなルール、というグランドデザイン。
理想はあっても、それは時代がおのずとそうなっていくべきだ、と受動的に、諦念を含んで考えてましたが、もしかすると、原丈人さんは、何とかしようとしているのではないか、とかいかぶっています。
私は不可能なことをしようとし、登れない山に登り、ジョン・レノンもなし得なかった世界平和を望み、雨にうちひしがれている。
それはみんな、弾けない速度で演奏しようとし、高過ぎるキーで歌うことに現れている。